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読書ノート No.33   戸田真紀子編『帝国への抵抗』

根本 利通(ねもととしみち)

 戸田真紀子編『帝国への抵抗-抑圧の導線を切断する』(世界思想社、2006年4月刊、1,600円) 

 本書の目次は以下のようになっている。

 第1章 帝国に支配されるアフリカ(戸田真紀子)  第2章 「土地と自由のための闘い」か「マウマウ」か(G.C.ムワンギ)  第3章 ケニア独立運動の原点(三藤亮介)  第4章 ジンバブウェの解放闘争における政治、社会およびその遺産(北川勝彦)  コラム バンドン会議とアメリカ帝国主義(G.C.ムワンギ)  第5章 太平洋諸島の独立、再周辺化、抵抗(松島泰勝)

📷    まえがきでは、「多くの日本人の耳に入ってこない「歴史の舞台裏」にいる人々の声を日本語で伝えていく。」と目標を掲げている。

 第1章では、新植民地主義と帝国主義を定義しようとする。アフリカにおいてはイギリス、フランスおよびアメリカの帝国主義である。アフリカが奴隷貿易、植民地支配によって帝国の周辺化、従属化されたことを述べる。さらにアフリカ人の抵抗(マジマジや「マウマウ」など)やアンゴラ、モザンビークにおける解放闘争と帝国主義による妨害工作を述べる。

 現在のアフリカの独立国の貧困をたとえば幼児死亡率の高さに見る。そしてその原因を服部正也の著作を引用しつつ、外資による利益回収率の高さに触れる。「公正な貿易」の必要性を説く。国内紛争、同胞意識の欠如、虐殺の記憶に触れながら、縁故主義を排し、能力によって採用する。アファーマティヴ・アクションや地方分権化により、民族、地域対立を緩和することを主張する。「抑圧の導線を断ち切り、アフリカの取り分を増やすということは、帝国の側の取り分が減るということである」(P.26)

 第2章には、ケニアにおける「武装」解放闘争を封印しようとした「神話」という副題がついている。1950年代前半の「マウマウ」闘争の背景と、それを独立後封印しようとした勢力の思惑を分析する。

 1958年12月にアクラで開かれた「全アフリカ人民会議」においてフランツ・ファノンとアルジェリア代表団は、武装解放闘争を是認させた。その後時は流れ、多くのアフリカ諸国が独立を達成していた1981年11月に日本で開かれた「AALA文化会議」において、議長であった堀田善衛が「帝国主義」という表現に否定的発言をしたことに対し、ケニアの作家グギ・ワ・ジオンゴは「帝国主義は強盗であり、泥棒である」と反論したエピソードを記している。(P.37~38)

 19世紀末からの植民地化でケニア中央~南西部の肥沃な土地は白人に奪われ、ホワイトハイランドと呼ばれるようになる。土地を奪われた人びと(多くはキクユ人)は原住民居住区に押し込められ、課税・強制労働をさせられることになる。アフリカ人の待遇改善を求め、いくつかの運動、協会が作られるが、1944年に結成されたKAU(ケニア・アフリカ人同盟)のなかで、穏健派(ジョモ・ケニヤッタら)と急進派に分かれるようになり、1950年代初めには急進派はデダン・キマジ率いる「ケニア土地自由軍」を地下に結成する。これが植民地当局から「マウマウ」と呼ばれるようになった。

 1952年の植民地協力派の首長の暗殺から、非常事態宣言が行なわれ、1957年キマジの処刑に至るまで、その鎮圧にイギリスは5万人の軍・警察と4年分の植民地予算を投入することになる。ほかの植民地と違い、5万5千人(1962年)もの白人植民者を抱えていたケニアは反独立の勢力も根強く、「マウマウ」を「野蛮な反文明の秘密結社」と宣伝するが、この「マウマウ」闘争が独立への道を血で購ったことになる。

 しかし、1963年に独立を達成し初代大統領となったケニヤッタは、イギリスとの駆け引きで「マウマウ」の闘士たちの名誉回復を行わなかった。第2代のモイ政権もそれを踏襲し、復権されたのがなんと2003年のキバキ政権になってからというのが驚きである。現在イギリスの裁判所で、元「マウマウ」闘士たちの謝罪と賠償を求める闘争が進行中である。またケニアとイギリスの間で50年間封印されていたキマジ文書も、今年解禁されるはずである。どんな事実が明らかになるだろうか。

📷 谷と森のある喜びの土地 この土地のために「マウマウ」が存在し、闘った。  第3章では、やはり「マウマウ」闘争の際に閉鎖に追い込まれた、ケニアの「独立学校」運動についての考察である。1895年から始まる植民地時代で、ヨーロッパ人による公教育を担ったのは、公立学校ではなくミッションによる教会学校だった。「遅れた野蛮人を文明化する」使命のもと、伝統的教育や慣習を排斥し、識字・宗教・職業訓練を中心とした教育だった。

 ホワイトハイランドで白人に土地を奪われ、労働者化されたキクユの人たちは、労働者養成のためではない官吏になれるような良質な教育を求めて、教会学校から離脱する部分が出てくる。ミッションが女子の割礼を禁止しようとしたとき、「独立学校」運動が起こってくる。1929年くらいかららしい。

 「独立学校」運動は次第に広がっていくが、ほとんどがキクユの人びとが中心で、セントラル州の20%くらいを占めた。1939年にはピーター・コイナンゲの主導により、ケニア教員大学も設立される。しかし、1952年からの「マウマウ」の闘争の時代では、その関連(拠点)を疑われて、ほとんどが閉鎖の憂き目に遭う。筆者は「独立学校」と「マウマウ」とは一線を画したとするが、独立学校は独自の文化維持の運動であり、「アフリカ人の土地はアフリカ人へ」という「マウマウ」と底流は共通する。「アフリカ人の教育はアフリカ人の手で行おう」という考えで、独立後の「ハランベースクール」に見られた下からの努力」と評価する。

 第4章では、2005年に独立25周年を迎えたジンバブウェの武装解放闘争の歴史を振り返り、その英雄がその後独裁者と呼ばれ、現在国際制裁を受けている状況を分析している。まず、英国による植民地化に対するチムレンガと呼ばれた抵抗、そして第二チムレンガと呼ばれた解放闘争の始まりから独立への歴史を概観する。また、ゲリラ兵と農民社会をつないだとされる霊媒師の存在、伝統的信仰にも触れる。

 「解放闘争の根底には土地という動かしがたい事実があった」(2005年、ムガベの演説。P.101)にも関わらず、その問題は解決されていない。独立後10年間を拘束したランカスター・ハウス協定があったということはあるが、政治家・公務員が金融公社の融資を受けて土地を取得していったのに対し、多くの農民たちが取り残されていった。それに対する不満が2000年からの元解放戦士たちのよる白人農場の実力占拠・収用、西欧による人権批判・経済制裁、超インフレなど経済の混乱につながっている。西欧による正義面した「人権無視」批判は歴史を振り返るとおこがましいし、国際的な経済制裁がジンバブウェの経済を破壊したのだろう。しかし一方でムガベが強権的な独裁者になり下がったという事実は厳然としてあり、ムガベを被害者とすることも妥当ではないだろう。

 白人入植者数が多く、独立への抵抗が長引き、独立が遅れたというのは、南アは別格として、アルジェリア、ケニア、ジンバブウェ、アンゴラ、モザンビークなどが挙げられる。共に激しい武力解放闘争を経験した。旧英国領ということでケニアと少しだけ比較してみたい。ケニアは独立前(1962年)の調査で白人5万5千人、アフリカ人830万人であった。ジンバブウェは1970年代初頭で、白人27万5千人、アフリカ人500万人とされる。比率でも絶対数でも白人の層が厚く、解放闘争がより長引いたのもうなずける。どちらの国でも最大の争点は土地問題で、独立とともに解決せず、現在の紛糾につながっているといえる(筆者はケニアは違うように解釈しているように見えるが-P.119)。英帝国式の分断支配がそれに輪をかけているといえるかもしれない。

 筆者は本章の結論として次のように述べている。「コロニアリズムは帝国主義がないと存続しえなかった。…民族の自決と進歩を求めることが国際的な支持を得られる闘いとすることに勝利をおさめたところに、この解放戦争の歴史的意義があった」(P.130)。ややわかりづらい。英帝国主義が植民地主義から新植民地主義に切り替えようとするときに、ローデシアの白人はその帝国から自らを切り離していったということなのだろうか。そして、今アフリカに「帝国主義」が現存するとしたら、「進歩」の潮流のなかで生まれたはずのアンゴラやジンバブウェの現在の国家の状況をどう説明するのだろうか?

 第5章では、あまり知られていない(少なくとも私には)太平洋諸島の再周辺化の状況を、特にミクロネシア諸島の例を挙げて紹介している。北太平洋にあるミクロネシア諸島は、ドイツから日本の統治を経て、1947年国連の戦略的信託統治領として米国の統治下に入った。本来の信託統治は社会経済発展を促し、独立へつなげる政策が期待されるのだが、米国の統治は戦略的見地からその義務がなく、「動物園政策」と呼ばれたという。そして元々属領とされていたグアムは別として、軍事基地建設の引き換えとしての援助金(コンパクトマネー)をきっかけに諸島のなかに亀裂が入り、北マリアナ、ミクロネシア連邦、パラオ、マーシャル諸島と分かれて、独立、自治領と地位が変わっていった。独立といっても防衛権を米国に託したり、非核条約への署名を拒まれるなど、国家主権を一部奪われた「半独立」の状態となった。

 経済的・軍事的に従属した形の国家では、恒常的な財政赤字、失業率の高さとそれに伴う島外への移住率の高さ、社会不安が特色となった。フィジーやソロモン諸島などのメラネシアでは民族対立、クーデターなども頻繁に起こり、「失敗国家」や「太平洋のアフリカ化」論が起こった。その論理と並行してオーストラリアを中心とする「太平洋同盟構想」が起こっている。しかし、筆者はこういった論議を抑圧する側の論理、オーストラリアによる新植民地主義と一蹴する。そして太平洋諸島内の抵抗、島嶼間のネットワーク、沖縄の独立運動も展望する。

📷 勝者たち 『Mwananchi』2013年3月13日号  第2章の筆者であるムワンギさんは遠い昔に、アフリカの現実感を教えてくれた畏兄である。当時の文部省国費留学生としてアフリカから招いた奨学生第1号である。1974年だっただろうか、京大法学部の大学院で日本の近代政治史(明治維新の前後)を学んでおられた。歴史だったら当時のムワンギさんより知識は豊富だったから、偉そうな態度だったのかもしれない。でも、本で得ただけの知識は弱いことをその後思い知ることになる。

 1975年夏に初めてアフリカの土地を踏んだが、入り口のナイロビで迎えてくれたのはムワンギさんの学友(ということは超エリート)と弟ムゴさんだった。ムゴさんに連れられてムワンギさんの故郷の村キアラガナ村を訪ねたのが、アフリカ農村の初体験であった。その時のムワンギさんのご家族、小さい弟さんたちにも温かくお世話になった。その体験が私がずっと40年、アフリカのことに関わってきただけではなく、タンザニアに住むようになった原因の一つだろうと思う。そして同じようなキアラガナ村体験を持って、アフリカニストになっていった人たちも多いように聞いている。

 ムワンギさんに教わったことで今でも引きずっているのは「部族という言葉の持つ差別性」だろう。「『人』」と『族』というように、人間を区別することをアフリカ人はしない」と彼は強く言ったと思う。彼の日本語能力がその当時どの程度あったかは疑問だが、英語でいう「Tribe」の持つ差別性を指摘したのだ。アフリカ人(ケニア人とかタンザニア人)が今でも自らTribeと記すのは、植民地遺制の一つだろう。

 もうあれから40年近く経つが、依然日本の大新聞の記者や外務省の高官は「ケニアの部族対立」と平然と使う。公共放送はこちらが「XX民族」と用意したナレーション原稿を「XX族」とわざわざ書き換え、理由を問うと「慣用だから」と答える。アフリカニストのなかでもわざわざ「マサイ族」と書いて、神秘感、ロマンチシズムを煽ろうとする人もいる。アフリカの心理的な距離は遠いのである。今回のケニアの総選挙(3月)の報道で、従来「部族対立」と書いてきた「進歩的」とされる大新聞が、おそらく初めて「民族対立」と書いた。これはナイロビ特派員の見識なのか、本社編集局の方針転換なのかは知らない。でも同じ新聞の機動特派員という人は旧態依然でケニアの大統領選挙のことを「部族対立」と書いていたから、大新聞が見解を改めたわけではないようだ。

 しかし、今回の選挙の結果は、「ケニアの政治は民族対立」と説明しやすいような結果に終わった。前回の選挙(2007年)後の暴動で殺しあったキクユとカレンジンが連合を結び、ルオ-カンバ連合に勝利したように見える。しかし、それで説明した気になっていいのだろうか?第4代大統領に選ばれたウフル・ケニヤッタは「国父」ジョモ・ケニヤッタの息子である。そして、独立後のケニヤッタ側近による土地の蓄積の結果、ケニア随一の大地主、5億ドルの資産家といわれる人物である。「マウマウ」の戦士たちが目指した土地問題はまだ当分解決しそうにない。

 ムワンギさんは、日本人にはしょせんケニアのことはわからないという突き放した諦念をもっているのだろうか?あるいはもっと自分で勉強しろよというのだろうか?第2章の書き方は私のような一般の読者には物足りないだろう。膨大な参考文献を提示するのではなく、もっと踏み込んだムワンギさん自身の生き方に絡んだ見解を読みたかった。

 本書には比較的古く見える感覚、分析が随所に見られる。「帝国主義」とか「新植民地主義」とかいう語句もそうだ。私も同じ世代だから違和感はない。が、最近はこういう論調を聞くことが少ないようだ。アフリカの状況が変わったから?あるいは政治経済研究分析が深化したから?いや学会の流行が変わったからだけだろうか?アフリカにおける貧困、格差の拡大、外国による収奪は、社会科学用語の表現をどう変えても変わっていないように感じる。もちろん、アフリカの人たちの反撃はあるのだが、それを押さえこめようとする勢力も強い。欧米諸国のお眼鏡にかなわないと「失敗国家」の烙印を押され、政権転覆に追い込まれていく国ぐにがあるのを見ると、また最近の中国の圧倒的な経済進出、存在感を見ると、やはり帝国主義という語句を思い出してしまう。処方箋は一つではないのだろう。

☆参照文献:井野瀬久美恵・北川勝彦編『アフリカと帝国』(晃洋書房、2011年)  ・ワンボイ・ワイヤキ・オティエノ、富永智津子訳『マウマウの娘』(未来社、2007年)

(2013年4月1日)

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