根本 利通(ねもととしみち)
栗本英世『民族紛争を生きる人びとー現代アフリカの国家とマイノリティ』(世界思想社、1996年4月刊、2,233円)
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本書の目次は以下のようになっている。
はじめに
第Ⅰ章 戦後から戦前へースーダンの内戦
第Ⅱ章 銃と自律ーパリ人とスーダン内戦
第Ⅲ章 中心と周辺ー社会主義革命とアニュワ人
第Ⅳ章 国家に抗する民族ーアニュワ人の闘争
第Ⅴ章 望郷と離散
終章 エピタフ
「はじめに」に、著者が1993年末に放映された日本のテレビ番組2本に触れている。大津司郎氏が撮ったニュースステーションと、黒柳徹子ユニセフ親善大使のスーダン難民キャンプ訪問記録である。私にも似たような記憶がある。タンザニアに住み着いたばかりの1984年、黒柳徹子がやってきて、キリマンジャロの「体重を感じさせない」子どもを抱いて「飢餓キャンペーン」を行った。その子どもの選択を巡って、「やらせ」だという当時の在留邦人の意見を聞いたことがある。テレビの報道ドキュメンタリー番組の「あざとさ」の一端に触れた記憶である。
第Ⅰ章では、19世紀以来のイギリスによるスーダンの植民地化からの歴史を追う。スーダンは1956年に独立したのだが、第1次内戦(1955~72年)は独立前から始まっていたことが注目に値する。いわゆる「南部問題」だ。南部の分離独立の目標を掲げたSANUとその軍事部門であるアニャニャが活動を始める。1972年当時のヌメイリ・スーダン政府とアニャニャとの間で、アディスアババ協定が結ばれ、南部地方政府が成立する。
若き著者が調査のため、初めて南スーダンを訪れたのは、つかの間の平和の時期、1978年だった。著者はエクアトリア州のパリ人の集落ラフォンで、文化人類学の調査に従事する。「モジョミジ」という壮年階梯が、集落の自律の中心であることを知る。1983年、石油利権争い、イスラーム法シャリアの強制などへの不満から第2次内戦が勃発(~2005年)し、ヌメイリ政権は崩壊する(1984年)。SPLM/SPLAの活動が活発化し、政府軍との交戦が激しくなるが、南スーダンでの調査を続行する。
第Ⅱ章では、フィールドから第2次内戦を眺めている著者がいる。ラフォンにSPLAと政府軍が交互に進駐し、掠奪する。その後に村人による掠奪・破壊が行われる。「外人」とみなされるものの家、財産は徹底的に破壊され、掠奪された。NCAという援助のためのノルウェーの教会組織も、著者の調査用の小屋も例外ではない。なぜパリの若者たちの多くがSPLAに参加したのかを、パリ社会の年齢階梯から、また南部スーダンの民族勢力のバランスから考察する。政府軍とSPLAとの対立が、各民族間に波及していき、どちらもそれを調停する能力がないことを露呈する。それどころか、政府はそれを煽って、南スーダンの民衆を分裂させようとする。自律は銃によって守られる状況になった。その紛争の激化の中、著者は1986年7月ジュバを去り、調査の続行を断念せざるを得なくなる。
ヌメイリ政権を打倒した軍事クーデター後、民政移管されて成立したマフディー政権(1986年)はSPLAとの和平交渉に入った。が、1989年それを倒して成立したバシール政権は、「イスラーム原理主義」を支持基盤として、SPLAとの和平を拒否し、武力解決を目指す。またSPLAの内でも、民族的な対立が起き、主流派(ガラン派)と統一派に分裂し、そこを政府軍に付け込まれ、SPLAの解放区は大幅に減ってしまう。統一派の中でも民族的な対立からさらに分裂し、政府軍に寝返り民兵となるものも続出する。
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第Ⅲ章では、著者はスーダンでの調査ができない中で、南スーダン国境近いエチオピアのガンベラ地方のアニュワ人の調査に入る。エチオピア帝国の拡大と、南スーダンにおけるイギリスの進出、一時的なイタリアによる軍事的征服を振り返りながら、ガンベラ地方が辺境であったこと、またエチオピアとスーダンとの国境画定のために、アニュワ人が2カ国に分けられてしまったことを見る。さらにアニュワの社会の中で「貴族」と呼ばれる指導者たちが現実的な実利主義に基づいて、抵抗したり連携したり、あるいは従属したりしながら国家と距離を置きながら生きてきたことを明らかにする。ハイレ=セラシエは遠方にいる温厚な大貴族に過ぎなかった。
しかし、1974年にエチオピアに起こった社会主義革命が大きく様相を変えてしまう。アニュワ社会のもっていた伝統的な貴族や村落首長の制度は廃止され、歌・踊り、婚資などの慣習も廃止または制限された。土地は国有化され、アニュワの人びとが従来利用してきた土地が、断りなく、綿農園やダムなどの開発計画のために奪われた。また、北部(エリトリアやティグレ)の反政府組織との戦いのために、アニュワの若者が強制的に徴兵されることが起きた。さらに、南スーダンで第2次内戦が始まると、大量の難民が流入し、国連などの援助物資がどっと入ってきた。エチオピア政府は積極的にSPLAを支援したから、ある意味では原住のアニュワ人よりもスーダン難民の方が優遇されることも起こった。
第Ⅳ章では、アニュワ人と国家との関係に触れる。社会主義革命とスーダン第2次内戦が大きな影響を与えたという。革命政権によって、アビシニア高原から「高地人」が強制的な入植者としてやってきたり、物流が活発化して、貨幣経済が浸透する。またスーダン難民の流入に伴い、援助物資が大量に流入・販売されることになり、トウモロコシを作るより買った方が安い状況が生まれる。そしてアニュワ社会に砂金採りという経済活動が1987年に発生し、急激に伝統的社会が崩れていった。
しかし、上から押し付けられた社会主義に対する反抗は、アニュワの世界では1979年に始まり、その後GPLMという小さな解放組織が生まれ、スーダン領に根拠地を置くようになる。そして、この辺境(ガンベラ地方)での覇権争いが、アディスアババ政権の代弁者としての高地人、ヌエル人、アニュワ人、SPLAという勢力のバランスで行われる。1991年メンギスツ社会主義政権が崩壊すると、それの庇護の下にあったSPLAもスーダンに逃げ出すことになった。その過程で、様ざまな武装勢力によって、やはり自衛のため武装していた村人たちが襲撃され、焼き払われ、虐殺されることが繰り返される。それは民族紛争という形をとって行われ、目を覆いたくなるような惨状である。
第Ⅴ章では、故郷を遠く離れざるを得なかったパリ人とアニュワ人の想いに触れようとする。パリ人のウブルは20数年前、15、6歳の時に故郷のラフォンを離れて、SPLAに参加したが、現在は北ケニアの難民キャンプに行こうとしている。エチオピアのアニュワ人であるジョンは、何回となく海外脱出を狙ったが、現在は故郷のガンベラ地方に住んでいる。国籍というものが、作られた国家の中の辺境にいる少数民族にとってはあまり意味がないこと、そして民族の故郷への想い、紐帯は深いことが感じられる。しかし、現実的には故郷に住めない、帰れない人びとが増加し続けている。
終章のエピタフは鎮守歌である。著者と親しかった人たち6人への語りかけである。優秀で学業に燃えていた若者たちが、解放組織の兵士になったり、あるいは行政官になるのだが、政権の交代、組織の分裂、民族対立などで、あっけなく処刑されたり、流れ弾に当たったり、地雷を踏んだり、拷問を受けて亡くなっていった記録は痛ましいとしかいえない。
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南スーダンの独立を祝う民衆©AFP
16年前に出版された本書を読んでみようと思ったのはわけがある。もちろん、昨年(2011年)独立を達成し、アフリカの中でもっとも若い国となった南スーダンについて、日本語で書かれたものを読みたかったことが第一である。昨年末、ナイロビで開かれたシンポジウムにひょんなことで参加した。テーマは「紛争と共生」で、1990年代から増えてきたアフリカ諸国の紛争と平和構築への作業の中に、アフリカ人の潜在力・知恵を活かそうという野心的な趣旨であった。本書の著者栗本氏も参加されていた。
ナイロビのシンポジウムに参加したのは、東アフリカ諸国ということで、エチオピア、南スーダン、ウガンダ、ケニアそしてタンザニアの5カ国の代表であった。その中で語られる議論に、タンザニア在住者として大きな違和感を感じた。それは南スーダン、南部エチオピア、北部ウガンダ、北部ケニアのように遊牧民が多く、それ同士の家畜の奪い合い、農耕民に対する戦いなどで、日常的に殺人がある社会。それが冷戦のために武器が大量に流入し、また国家権力を握る民族に対して少数派民族が抵抗することにより起こる紛争…。
これは著者の先輩格に当たる福井勝義氏が書かれたエチオピアのボディ人や南スーダンのナーリム人の、日常的に略奪し殺戮し合う社会のことを読んだ時の感想と似ている。つまり「人類学者は自分のフィールドの経験を針小棒大に誇張し、普遍化しているのではないか?基本的に法螺吹きが多いんじゃないか?」と失礼にも思ってもみたりもした。「そんなに簡単に人間を殺すものなのか?」という素朴な疑問だったと言ってもいい。福井氏によれば、「攻撃性が文化装置によって発現する」のであり、「戦争と異文化理解は別の次元に属しているように思われる」という。ナイロート系の牧畜民と私が長年付き合ってきたタンザニアの人たちとは、かなり違うということなのだろうか?あるいは、私がまったく周囲の人たちを理解していなかったのだろうか?
南スーダンは独立したばかりだが、タンザニアは独立50周年を迎えた。その半世紀は、おしなべて平和だった。殺し合った後の平和構築、共生よりも、その前に紛争を回避する知恵の方が、本来の英知なのではないのか?というのが素朴な感想だった。タンザニアはこの間、本当に平和だったのか?そうだとしたらそれはなぜなのか?そしてそれは今後も維持されるのか、もう一度考え直してみようというきっかけを作ってくれた。
とにかく本書を読んで感じたのは、あまりにも簡単に人が死ぬ、あるいは殺してしまうのはなぜか?自分たちとは違う「外部」と認識された人間は、同じ人間、「仲間」とは見なされないからなのか?それは単に閉鎖的社会の「後進性」の現れなのか?「世界はひとつ」という理念といかに遠いかというのを感じさせる陰惨さだった。重たく沈ませる書物であった。
本書の最終段階(1995年末)では、著者が南スーダンに戻れていない。2005年に和平協定が結ばれて南スーダンにいささかの平和が戻り、再び調査地に入れることになったのだろう。親しいオランダ人の研究者やジュバ大学、教会関係者と協力して、2009年11月東エクアトリア州西部地方と中エクアトリア州東部地方の人びとの「モジョミジ」の会議を開いた。その報告書が2011年に出ている(写真)。目的は各民族(共同体)がもっている自律組織であるモジョミジと政府との間の長い間の対立関係、統治の空白を埋めるために、関係者(政府、モジョミジ、女性グループ、首長、市民団体、援助団体)が集まり、モジョミジに法的な正統性を与えようとするトリット宣言を出し、関係者がその遵守を見守る努力を誓った。
モジョミジというのは本書によれば、伝統的に集落の政治・法・社会的行事を司っている壮年階梯の男たちの集団である。このモジョミジを地方自治の中に積極的に位置づけて、特に治安の安定と開発を目指そうということらしい。モジョミジとは別個に世襲制の首長がいて、その権威の喪失を恐れる者もいる。また伝統的には排除されていた女性の発言権をどう確保していくかも課題のようだ(女性のモジョミジというのも一部地域で組織されている)。1978年に「伝統的な未開の部族」の研究に入った若き人類学徒が、30年間以上にわたってその土地の人びとの生き様に付き合う中で、その軌跡の必然的な結果としての実践のように見える。現在もきな臭い空気が充満していると伝えられる南スーダンの人びとの将来よ、安かれと願わずにはいられない。
☆参照文献:Simon Simonse & Eisei Kurimoto Ed."Engaging Monyomiji:Bridging the Governance Gap in East Bank Equatoria"(Pax Christi Horn of Africa,2011)
・福井勝義・赤阪賢・大塚和夫『アフリカの民族と社会』(中央公論社「世界の歴史 24」、1999年)
(2012年8月1日)
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