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Habari za Dar es Salaam No.97   "African Rural Areas and Poverty Reduction" ―紹介『アフリカ農村と貧困削減』 ―

根本 利通(ねもととしみち)

 今回は池野旬著『アフリカ農村と貧困削減ータンザニア 開発と遭遇する地域』(京都大学学術出版会2010)を紹介したい。

 著者は大学生の時、ケニアのナイロビでスワヒリ語を学んだ。通称「星野学校」の創世記の時代の方である。著者がムワンガ県農政局などのスワヒリ語の資料をも使いこなしているその素養が培われた。その後、ケニアのカンバ人の地域の小農経営を研究され、1990~93年の間にはタンザニアのダルエスサラ-ムに居住して、パレ地域の調査を開始された。その後も、継続的に北パレ地域の農村の調査を続けてこられた。今回の著書はその集大成(中間報告?)である。

📷  まず、本書の構成を示そう。副題が章毎の内容を簡明に示している。   序章  アフリカ農村研究の残された課題      ーミクローマクロ・ギャップの架橋   第2章 タンザニアの国家開発政策の変遷      ーアフリカ社会主義の夢から世銀・IMF主導の開発体制へ    第3章 ムワンガ県の農業・食糧問題      ー併存する換金作物の不振と食糧不足   第4章 キリシィ集落での乾季灌漑作      ー生活自衛のための新たな営農活動   第5章 ムワンガ町の拡大と懸案      ー地域経済の牽引を期待される地方都市   終章  地域と開発の交接点を求めて

 序章は理論的な話、詳しい定義づけが多い。さらに対象であるフィールドを二つとし、そのタンザニア北部キリマンジャロ州ムワンガ県という大枠と、その県内のキルル・ムワミ村のヴドイ村区キリスィ集落の地誌的紹介がある。

 第2章では、独立国家タンザニアの経済を中心とする経済政策の変遷を追う。タンガニーカ(タンザニア)の独立から、現在に至る期間を4期に分けている。第1期は独立からアルーシャ宣言まで(1961~66年)、第2期はいわゆるウジャマー社会主義期(1967~85年)、第3期は構造調整政策期(1986~99年)、第4期は貧困削減政策期(2000年~現在)である。

 第1期は独立後の民間主導の近代化路線。製造業を中心とした経済成長路線で、欧米からの援助による開発を前提としていた。第2期は、ニエレレの主唱するウジャマー社会主義の時代で、主要産業を国営化し、社会主義的農村開発を目指したが、実際に農村に主要な関心があったか、投資がなされたかに疑問を投げかける。現実的には国家予算の農業部門への投資は漸減で、輸出代替工業化が重視され、小農たちは暗黙裡に反旗を翻し、換金作物、食糧作物の生産が低下していった。

 第3期はニエレレ退陣後の第2代大統領ムウィニが世銀・IMFの主張する構造調整政策を受け入れ、大幅な経済の自由化を行い、1990年代前半には政治の自由化と称して複数政党制が導入され、1995年の総選挙に至る。しかし、経済の自由化、民間企業の参入に伴い、マクロ経済指標の向上にもかかわらず、民衆の生活改善が遅々として進まないことから、貧困削減に開発目標を絞る第4期に入る。いわば、第3期、第4期は、タンザニア政府が経済政策に主体性を失って行き、グローバリゼーションの進行の中、国際機関の開発政策の変動に左右されるようになる。著者の主要関心は、後半の第3、第4期の中の農村の人びとである。

 第3章で、対象となっているムワンガ県の農業・食糧問題に入る。ムワンガ県もキリマンジャロ州の一つの県で、換金作物としてのキリマンジャロ・コーヒーの生産地の一翼を担ってきた。1980年代は増減はあるものの平均して600~700トンの生産量であったものが、1994/5年度からの構造調整政策の一環としてのコーヒー流通の自由化、及び2000年代初頭の世界的な「コーヒー危機」が相俟って、農民の生産意欲を大幅に削ぐ結果となり、生産量も2005/06年度には、なんと40トン(別資料では18トン)という壊滅的な状態となっている。これはキリマンジャロ州、アルーシャ州の北部高原地帯のコーヒー生産地全般に言えることだが、ムワンガ県の状況はその中でもひどいようだ。県の農政局は50年以上ほとんど唯一の換金作物であったコーヒー生産の再建を夢見ているようだが、現実の農民のコーヒー離れは深刻なようだ。

 一方で、主食であるトウモロコシ生産について見てみる。タンザニア国全体でも、トウモロコシ生産はウジャマー政策時代、構造調整政策の時代を通じて緩やかに伸びているものの、都市部特にダルエスサラーム市の人口の増加率に生産が追いつかず、常に食糧問題が存在していることが分かる。ムワンガ県でも1990年代から頻繁に食糧不足に陥り、政府その他によるトウモロコシの無償援助あるいは廉価販売を受けているという。2000年代の記録を見るともはや慢性的と言っていい感じだ。これは確かに天水に頼る農業の脆弱性を示してはいるが、ムワンガ県当局はデータを操作して、食糧不足を過大報告して、国から食糧援助を引き出す戦略の部分も見受けられる(タンザニアにおける統計の信憑性の低さに関しては、著者も繰り返し述べているが、それでも膨大な資料の中からより確実な数字を導き出そうという態度には頭が下がる)。そしてその援助を受ける末端での配給の制度にも触れられている。

📷 第4章では、対象の調査地の中核となっているキリスィ集落の乾季灌漑作を分析する。大雨季と小雨季という主要耕作期(必ずしも1年に2回耕作することを意味しない)を補完する、大乾季(6月~10月)の灌漑耕作を観察する。大雨季に北パレ山塊に降った雨が、乾季に湧水となって溜池にたまり、そこから引かれた用水路によって、平地の圃場でインゲンマメなどの耕作に使われることをいう。この乾季灌漑作は、いわば農民による自衛策と見ることができる。著者が観察を始めた1995年から2009年までのの15年の乾季のうち、8年は実施され、6年は実施されなかった(1年は不明)というから、灌漑とはいえ、大雨季の降水量に左右される天水頼りであることは間違いない。ただ、これは植民地化以前から行われてきたパレ民族伝統の技術でもある。山間部の村での灌漑耕作については、吉田昌夫氏の調査がある。

 キリスィ集落での灌漑は、2つの水系の用水路にそれぞれ用水管理者がいる。2人の管理者は集落草分けクランに属するが、必ずしも建造者の直系ではない。用水管理者の下に用水委員会があり、またその年に配水を受ける耕作者によって番水グループが作られる。用水利用者は、水源であり、かつ溜池の存在している山間部の村の利用者との用水の調整も行うことになる。灌漑作の圃場の耕作者は、その耕地の保有者とは限らず、また耕地の数と圃場の数は一致しない(つまり一つの耕地を複数の圃場として利用するなどの例がある)。さらに、耕作者が耕作地保有の本人あるいは同居家族である場合は3分の1程度で、その時どきの耕作者は遠縁だったり、親戚関係になかったり、果ては他の村の人だったり、かなり多様である。用水利用、耕作者を見ても、かなり開放的で柔軟な運営形態であることが分かる。著者は「東アフリカでは個別世帯が相対的に自立した農村社会が形成されていると考えるが、乾季灌漑作はその経済単位を超えて展開されている集団的営為としても注目に値する」(P.181~2)という。

 一方で1997年からタンザニア政府の主唱で在来灌漑施設改良計画(TIP)という開発プロジェクトが始まり、ムワンガ県ではオランダのNGOの援助がついている。キリスィ集落の用水の溜池もTIPの援助での改修計画があり、そのために村区に水利組合が結成されたが、水利組合登録者が乾季灌漑用耕地保有者の半数にも達せず、有効に機能せず、改修計画も進んでいない。近年の天候不順(降水量の不足)により、乾季灌漑作が行われたのは、2002年以降の8年間でわずか3年であり、かつその圃場数が盛期の1998年には65にも達したのに対し、2006年は11に過ぎないなど陰りが見えるようだ。それは第5章に触れられる非農業のインフォーマル・セクターの発展と関連するのだろうか。

 第5章ではムワンガ県の人口停滞の中で成長拡大するムワンガ町と、現在その行政区域に編入されたが、本来は隣接する村であった著者のフィールドである、ヴドイ村区キリスィ集落に焦点を当てる。ムワンガ県は1978年以降、その属するキリマンジャロ州を含めてタンザニア本土の人口増加率を下回り、1988~2002年には、キリマンジャロ州の平均をも下回る1.23%という低い人口増加率しか残していない。これは、従来コーヒー産地で、県の経済を牽引し、高収入・高学歴で、国の高級官僚や知識人、国会議員もほとんど独占してきた山間部の村が、コーヒー価格の崩壊と共に、経済的に子供を中学校にもやれなくなり、都会に出稼ぎに行くようになる(山間部は人口減少、高齢化)。ダルエスサラームやモシ、アルーシャといった都会に出稼ぎに行くのだが、ムワンガ町という県庁は人口増加が続いている(1988-2002年は4.34%)。

 ムワンガ町のような県庁所在地とはいえ、人口1万人強のいわば地方小都市の人口増大の原因は、製造業の工場が誘致されたわけではなく、中学校などの教育施設の新設などの建設ブームとそれに伴う各種の商業・サービス業の増加と考えられる。1990年代から注目されてきている「農村インフォーマル・セクター」の一地域の中心として地方都市が発展しているということだろうか。建設ブームに伴う非農業活動として、レンガ、砂利、木炭等の製造、日雇いなどが挙げられている。

📷 さて、第5章の3節が、本書の中で最もおもしろいヴドイ村区の水道新設事業の話である。旧キルル・ムワミ村ヴドイ村区は、ムワンガ町に編入される以前から、旧ムワンガ町旧市街と同じ水源から水道が取られていた。ムワンガ町水道公社が管轄するわけだが、ヴドイ村区では水道委員会が定額で料金を徴収し、その基金を使って補修・管理を行ってきた。それに対し、ムワンガ町水道公社は、急増するムワンガ町の人口に対応する給水事業拡充のため、水道メーターを設置して、使用料に応じて水道料金を徴収しようとした。それに対しヴドイ村区の住民は水道料金の支払いを拒否し、独自に水源を確保し、水道管を設置しようとした。つまりムワンガ町水道公社の管轄下から離脱しようとする動きで、下手をすると住民エゴとみなされない行為であったが、県選出の国会議員に働きかけ、水利権の確保や水道管の寄贈を得、それでも必要な水道管12巻の内5巻しか確保できずに、長いこと棚上げされていた。2008年に県出身者で現在ヴドイ村区に家を新築している富裕な商人に残りの水道管を寄贈してもらい、急展開があり、2008年4月から暫定的に新水源地からの水道が使われ始めたという。

 自主水源への方針決定から5年間かかったこと、当初の費用見積もり563万シリングの内村人自身の醵金は5万5400シリングしか集まらなかったこと、水道管敷設の共同作業に必ずしも多くの村人が参加しなかったこと、選挙を控えた国会議員を利用したこと、富裕な商人の寄付という天佑(?)があったこと…など、難点あるいはタンザニア特有の事情を挙げることは可能だが、住民の主体性をもって、行政とはっきり対立して、事業をとりあえず立ち上げ成功にもっていったことは大いに注目に値するだろう。

 終章はまとめであるが、まず「地域の主体性」という観点を著者は挙げている。最近流行の「住民参加型の開発」というテーゼだが、それはややもすると国際機関が現地特有の事情を勘案せず、全世界とはいわないが、例えばアフリカ均一のモデルプランを作成し、ドナーという顔をして、その当該国の中央政府を通じて「上からの強制」となっている場合が少なくないだろう。著者は「「貧困削減」の主体はあくまでも地域社会の住民であり、彼らの状況依存的な判断が尊重されるべきであり、それは時には開発プロジェクトを促進し持続させる方向で働き、時には開発プロジェクトを阻害し頓挫させる方向で働くこともあろう。外部から見てつねに望ましい「貧困削減」の一方向的な変化を期待することは妥当ではない」(P.320)と説く。 この本の題名は『アフリカ農村の貧困削減』ではなく、『アフリカ農村と貧困削減』となっている所以だろう。

 次いで、懸案のミクローマクロ・ギャップの架橋に触れる。ミクロ(著者を含む地域研究者)とマクロ(開発諸学者)との協業の必要性・可能性についてである。私は学者ではないが、タンザニアのダルエスサラームという巨大都市に長年住み、そこでいわば定点観測のように、タンザニアの民衆の動向を眺め、その中から世界、ひいては世界史を見たいと思っている。そうするとどうしてもマクロ的な視点には違和感を覚えることがままある。例えば平野克己氏の新著『開発と援助の世界史』を読むと、その大胆な仮説、「アフリカ問題から世界の問題が見える」というような挑発的な断言には、瞠目すると共に小首を傾げることになる。自分の見ているタンザニア社会の変化、民衆の感情というのはある意味では確実なものだが、それを単に事象として羅列するのではなく、分析し一般化するのが学問かもしれないが、それを普遍化できるかというと、ちょっと待てよと思ってしまう。多様な世界・文化の併存という信条からいうと、画一化、グローバリゼーションの進行には抵抗したい気持ちがあり、開発の方法も多様化しないといけないと思うのである。「開発」が実は外部の人間の都合による押し付けであるならば、その地域の住民はそれをうまく取捨選択し、援助も利用したらいいと思う。それだけのしたたかさがあれば、単なるグローバリゼーションの被害者とはならないだろう。著者の言うようにデザート・ローズであればいいのだが。

 この本の中には、おまけがある。調査地の鳥類の写真8葉である。ミミズク、カワセミ、サイチョウ、ヤマセミなどである。著者の趣味が嵩じて、なんと鳥類の写真集もあるのだが、その一部である。硬い本の中で、ほっと一服する部分である。このHPにもおまけとして、著者撮影の写真を2葉入れておこう。

 ☆参考:吉田昌夫『東アフリカ社会経済論』(古今書院1997)       平野克己『開発と援助の世界史』(日本評論社2009) 

(2010年5月1日)

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