根本 利通(ねもととしみち)
ダルエスサラームのホテルは昔は数が足りないと言われていたが、近年特に高級ホテルが増えてきた。安宿は依然存在するが、中級ホテルというのが意外と少なく、特に街中の中級ホテルはなかなか難しい。カリアコー地区のような普通の旅行者が敬遠する地区、あるいはウブンゴ地区やミコチェニ地区のような郊外まで行けば、ほどほどに快適な中級ホテルは見つかるのだが、街中だとこんなホテルがこんな料金を取るのか!と思うほど、値上がりが激しい。観光だけでなく、タンザニアのビジネス需要が増えてきたのかとも思うが、昨今の世界経済の低迷が影響を与えそうだ。
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キリマンジャロ・ホテル
ダルエスサラームの最高級ホテル、国賓が泊まるのは、キリマンジャロ・ホテルである。独立後の1965年、国のトップホテルとしてオープンした。元々国営というか、タンザニア観光公社(TTC)の経営であった。社会主義時代は、北部サーキットのワイルドライフ・ロッジ(ンゴロンゴロ、セロネラ、ロボ、マニヤラ湖)を始め、アルーシャのマウントメル・ホテルやミクミのワイルドライフ・ロッジ、マフィアのアイランド・ロッジ、ダルエスサラームのクンドゥチ・ホテルなど、主要な観光地のホテルは全て公社の経営だった。観光地以外でも、今も残るタンガのムコンゲ・ホテルとかムワンザのニュー・ムワンザ・ホテルとか地方主要都市のトップホテルもTTCの経営だった。
キリマンジャロ・ホテルには皇太子時代の今の天皇夫妻が泊まっているし、1975年、私が最初にダルエスサラームに滞在したときは、Tシャツとゴム草履では、入るのをためらわれるほどの格式だった。1984年にダルエスサラームに住むようになって、稀に日本からの知人にキリマンジャロ・ホテルの屋上レストランからの眺めを見せたくて案内した。そのころタンザニアの経済はドン底で、キリマンジャロ・ホテルのトイレでもトイレットペーパーは非常に薄くしか置いていていなかったように思う。それでもトップホテルの威厳は保っていた。日本大使の歓送迎会などの重要なパーティーはキリマンジャロ・ホテルで行われたし、マハレ30周年セミナーもここで開催した。
1990年代に入り、東欧圏の崩壊から、経済の自由化が始まり、国営企業・公社が少しずつ、民間に経営委託あるいは売却されていった。TTC所有のホテルでは、まず利益が見込める北部サーキット(セレンゲティ、ンゴロンゴロとアルーシャ)が一括してリースに出され、それ以外のマフィアとかミクミも個別にリースされ、ダルエスサラームのニューアフリカ・ホテルなどもそうなった。その中で、キリマンジャロ・ホテルだけは頑固に公社の経営のままだった。建前は「トップホテルだけはタンザニア人のプライドに掛けて運営して見せる」ということだが、実際にはリース料が折り合わなかったのだろうと思う。1995年にシェラトン・ホテルがオープンし、トップホテルの座を奪われると、坂道を転げ落ちるように寂れて行った。最後のころは泊まっているお客さんも数室で、全員2階に集められているのが外からも見て取れた。電気代、電話代が滞納で切られていて、バケツに沸かしたお湯をボーイが運んできたり、お客さんに電話がかかると携帯をもってマネージャーが部屋まで飛んできたりと、笑えない状態にまで落ち込んだ。
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旧エンバシー・ホテル
営業を停止したのがいつだったか、正確には思い出せないが、2000年前後だったのではないか。その後やっとリース先が決まり(アブダビをベースとしたコンソーシアムだと思う)、マネージメントをドイツのKempinskiに託して再オープンしたのが2005年夏である。ダルエスサラーム港を見下ろす立地のよさを活かしたトップホテルとしての輝きを取り戻し、ブッシュ大統領(当時)などの宿泊も引き受けている。ただ、建物自体は改装で古いままなので、部屋の広さはさほどではない。また従業員の訓練がまだ行き届いていないので、トップホテルには似つかわしくない、予約漏れなどが時々起きている。
ダルエスサラームでキリマンジャロ・ホテルに次ぐNo.2はニューアフリカ・ホテルであった。ドイツ領時代の高級ホテルのカイゼルホフの跡地に、当時のダルエスサラームのトップホテルとしてオープンした。1階にオープンのカフェテリアがあり簡単な軽食を摂れたから、キリマンジャロ・ホテルと違って近寄りやすく、人との待ち合わせに良く使った記憶がある。高級ホテルに中では一番親しみやすかったが、次第に中級の上クラスに落ちて行った。1980年代に新設する棟の建設が長いこと止まっていたのが印象的だった。1990年代に入り、やはり民営化の流れの中で、解雇される従業員と公社との間に争議が起こり、しばらく閉鎖されていた。
1996年に改装されて、高級ホテルとして再スタートした。社会主義の時代には禁止されていたカジノをいち早く取り入れ賑わった。娯楽の少ないダルエスサラームのこと、単身赴任や出張者の日本人が夜な夜な訪れ、「俺はカジノのカーペットの半分は出してやった」と豪語する人たちを数人は知っている。1990年代は1泊$80~100程度で使い勝手がよかったが、最近は1泊$150も取るようになり、割高感が出ている。ダルエスサラーム港に近接してあるので、その屋上から港の風景や、街中の様子を俯瞰するのに便利なので、よくテレビクルーなどを泊めたりした。階上のレストランでは港の夜景を眺めながら食事が摂れるので、香港の100万ドルの夜景ならぬ100万シリングの夜景と言っていたが、最近のシリングの下落で価値が激減してしまった。
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旧モーテル・アジップ
私がタンザニアに住みだした1984年のころ、ニューアフリカ・ホテルに代わってモテール・アジップとかエンバシー・ホテルという民間経営の新しいホテルが、公社系に比べて「サービスがいい」と人気を集めたことがある。どちらもインド人系の経営者だった。確かにエンバシー・ホテルは出来たばかりで新しく、気持ちが良かった。公社系より「サービス」を意識しているところがあり、中央郵便局の裏手という地の利もあり、日本からの知人や団体客に積極的に利用した時代がある。アジップの方はもう少し古いホテルで、ニューアフリカとキリマンジャロの中間に位置し、落ち着いた雰囲気でレストランも美味しく、マハレなどへ往来する研究者がちょっと贅沢をするの休息所という感じだった。
エンバシーもアジップも高級というよりは中級の上で、そこそこサービスもよく、使い勝手が良かったのだが、今は共に閉鎖中である。共に売却の際に揉めて、特にエンバシーは従業員の解雇に関して訴訟沙汰になり、ロックアウトが行われたり、だいぶ話題になった。今はひっそりとしているが、改装したりする動きは見えない。どちらも街中で地の利はいいので、誰かが買い取って程度のいい中級の上のホテルが出来ないかなと期待している。(エンバシーは買い手が決まったという噂を聞いた)
さて、1975年、私が初めてダルエスサラームに来たころのホテル事情を思い出してみよう。もう記憶があやふやになっているから、間違いがあるかもしれないが。
私たちは学生で貧乏旅行だったから、安宿を探して投宿した。当時は長距離バスは全て夜行で、私たちはモシからきて、朝ダルエスサラームに着いたのだと思う。最初の晩はクロックタワーのラウンドアバウトに面してあったウィンザーホテルだった。料金の記録はどこかにう座埋もれているが、ツインで60~80シリングくらいではなかったか。$10前後である。これは当時の記録で唯一残っているYWCAのシングル35シリングからの類推であるが。インド系の夫婦がやっているホテルで、狭い敷地に高いビルがあった。会計はグリル(格子)がはめ込んであり、物騒な感じがしたことを覚えている。暗く狭くいい記憶はなかったが、誰からか事前にこのホテルの情報を教わってきたのだろう。
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パームビーチ・ホテル
このクロックタワーの周辺には安宿が多かった。プリンス・ゲストハウスとか、レックス・ホテルなどである。ダルエスサラームを出たり入ったりする間、いくつか安宿を替わった。ザンジバル・ホテルなども旅行者の仲では有名だった。この区域は今でもホリデイなど安宿が健在である。1975年当時は同行していた友人が日本へ向かって発った後は、YMCAに居を移し、さらに日本の協力隊にスワヒリ語を教えていたサリムさんの自宅に転がり込んだ。当時ドライブインがあった裏手の地域で、現在のアメリカ大使館の近くになる。のんびりとテンベア(散歩)して楽しく、人々の生活を垣間見ることができた。ホテル滞在では味わえない「暮らす」感覚だった。
1984年からダルエスサラームに住み着くようになって、当時あったホテルを思い出してみる。そのホテルが1975年にも既に存在していたのかは自信がないのだが、キリマンジャロ・ホテル、モテル・アジップ、エンバシー・ホテル、ニューアフリカ・ホテルというのが高級ホテル群で、それに次ぐ中級ホテル群としてあったのが、トゥイガ・ホテル、ホテル・スカイウェイ、モーテル・アフリーク、マウェンジ・ホテル、パームビーチ・ホテルなどである。オーシャンロードのシービュー・ホテルやホテル・エッチェンもあったが、ホテルとして利用したことはなく、レストランとしてしか知らなかったので、あまり印象がない。
それらの中級ホテルが、日本からの友人、研究者の人たちが主に泊まったホテルで、当時のレートで$25~40くらいだったと思う。円換算だと6,000円~10,000円くらいになるだろうか。しかし、そのほとんどはもう存在しない。サモラ・アヴェニューにあったトウィガ・ホテルは屋上のレストランの眺めもあったし、中華風の料理も出すので時々使ったが、ここは早く、おそらく1990年代前半にはNBC(銀行)に変わってしまった。ホテル・スカイウェイは、1階のバーがちょっと怪しい雰囲気で、マーゴットというナイトクラブに出撃するお姉さんたちが出掛け前に一杯ひっかけるような場所で、建物は古く狭かった。その後、中華レストランになり、今は銀行になっている。
モーテル・アフリークは私自身何回か泊まったことがあり、おそらく1975年にもあったと思う。1階にダルエスサラーム・スーパーマーケットがあり、1975~76年はよく日用品を買い物した。1984~5年のころにもスーパーはあったが、どん底経済の時で、売る物が極めて少なく、。同じ品物、つまりある物だけをがら~んとした広い店に並べていた記憶がある。モーテル・アフリークはサモラ・アヴェニューにあるExtelecom Houseという海外に電話が掛けられた建物の角を入って一筋の角地にあり、地の利が良かったから、最初のころ2~3年間のツアーに使ったと思う。評判は悪くなかったが、マーゴットの隣のビルだったので、深夜までうるさいという苦情はあった。いつの間にやら閉鎖されたが、2006年ヘリテージ・モーテルとして再オープンした。古い建物にお化粧を施しただけど、特にシングルの部屋は昔のトイレ・シャワー共用の部屋のままで、息苦しいほど狭い。が、古いホテルはなくなってしまうことが多い中、新装開店してくれて嬉しかった。
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ホリデイイン
マウェンジ・ホテルも街中のいい場所にあり、古い時代の協力隊員OBOGがセンチメンタルに利用していたが、ここもかなり早くから営業を停止して、買い手を待っていた。買い手がやっとつき、工事が始まったが遅遅として進まず、3年間もかかっただろうか、今年7月になってやっとホリデイイン・ダルエスサラームとして再開した。ただ、古い建物は全部壊してしまったので、全く新しいホテルである。オーナーはインド系の人間のようで、いきなり高い料金をつけたので、しばらくは閑古鳥が鳴いていた。 「最初の3ヶ月くらいはキャンペーンで安く出したら?」という旅行社の要望を聞かず、投資を早く回収したいのか、転売も時間の問題かと思わせた。
街中から少し離れたオーシャンロード沿いにあったエッチェンもシービューも閉鎖してしまった。昔のシービューの場所に、コートヤード・ホテルという高級ホテルが建っている。このオーシャンロード地区には、昔ながらのパームビーチ・ホテルが健在である。パームビーチはおそらく独立前からあったと思われるコロニアルな建物である。ギリシア系タンザニア人の持ち物で、ほとんど投資しない(だろう)から、少しずつ寂れて行くのがよく分かり、かなり怪しい電灯を灯した屋外のバーでは夜の蝶たちが舞っている状態が長く続いた。2004年綺麗になって再オープンしたが建物そのものは変わらず、外装は毒々しい紫色で、コロニアルな雰囲気はなくなった。
さて2000年代に入ってからのダルエスサラーム市街のホテル事情はといえば、シェラトン(現在はモーベンピック・ロイヤルパーム)がオープンしてから続々とというほどではないが、少しずつ高級ホテルが増えてきた。コートヤード・ホテル(2001年)、ホテル・サウザンサン(2001年、最初はホリデイイン)、ハーバービュー(2003年)、そして今年オープンしたホリデイイン・ダルエスサラームであろうか。現在のホリデイインは公示価格は1泊$189だが、内容、サービスがまだ追いついていないようで、ウェブなどでは大幅に安売りしているようだ。オープンする時期が悪かったのかもしれない。また街中のホテルとしての弱点で、駐車場のスペースが乏しいの。お客さんを迎えに行く時など駐車スペースを探すのに苦労する。もっともこれはホリデイインだけではなく、ニューアフリカやハーバービューなどでも同様であるが。
街中に$100前後の中級ホテルが少ないのが悩みの種であろうか。高級ホテルではなく、適度なビジネスホテルとしては、ピーコック・ホテル、前述のヘリテージ・モーテル、パームビーチ・ホテルと共に、ソフィアハウス・ホテル、パラダイス・エクスプレス・ホテルくらいが$80~100クラスである。安全で清潔で交通の便がよく、かつインターネットなどが部屋から使えるというのがビジネス客の要望である。快適であれば、高級感は不要だ。そういう割りに合うホテルが求められていると思う。上記の中級ホテルはそこそこその条件を満たすと思うが、レストランがやや貧弱で、ホテル内で食事を摂っていると飽きが来るだろうと思う。また従業員のサービスのレベルも不満が残るだろう。従業員の訓練が出来ていないのが原因だが、従業員の給料が低く抑えられ、定着率が低いのが原因になっていると思われる。社会主義の時代はさほど遠くなく、「サービスをすることにより見返りがある」という認識がまだまだ定着仕切っていない。
タンザニアで日本あるいは欧米のようなスピード感あふれる、あるいはビジネス的な対応を求めるのは、まだ少し無理があるし、また将来的にも完全にはそうはならないだろう。タンザニア人のもつ優しさ、人なつっこさ、ホスピタリティーがうまい形で活かされ、お客さんにも喜ばれ、経営者にも従業員にも納得のいくような見返りのあるビジネスとして成り立つような方向はないかと夢想しているのだが。
(2009年11月1日)
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