top of page
検索
相澤

Habari za Dar es Salaam No.89   "Wild Heart of Africa" ― 紹介 『アフリカの野生の心』 ―

更新日:2020年7月14日

根本 利通(ねもととしみち)

 6月24日ダルエスサラームのホテルで、セルー保護区の本の出版記念会が行われた。その本、『Wild Heart of Africa-The Selous Game Reserve in Tanzania』(Rowland Ward,2009)を紹介したい。編著者は、バルドス(Rolf D. Baldus)というGTZからセルー保護区へ派遣されていたドイツ人の経済学者で、70~80年代密猟でゾウ、サイが大幅に減少したセルー保護区を立て直した人物として知られている。セルーに在任していたのは1987~93年、1998~2005年の2回。出版記念会には当時の同僚であった、ビグルベTANAPA(タンザニア国立公園)総裁、タリモ天然資源観光省野生動物局長などが出席し、お互い若かった当時を懐かしむスピーチを行い、さながら同窓会の様相を呈していた。彼らも20人いる共著者のメンバーである。本は260ページの大部で、写真・絵がふんだんに使われ、アフリカ最古・最大の動物保護区であるセルーの開設から沿革、危機、ハンティングの問題、将来への展望など、包括的な内容になっている。


 本書の構成は以下の通りである。内容がある程度想像できると思う

 第Ⅰ部 アフリカの最初の狩猟保護区   ・Shamba la Bibi:ーカイゼルのルフィジ支配   ・大遠征:セルーのリチャード・バートン   ・探検者の最期:ベホベホでのケイス・ジョンストンの死   ・失われた墓を求めて4年間   ・1905年「ライオン」クーネルトのサファリ:未出版の日記より   ・ウィルヘルム・クーネルト:セルーの画家   ・アフリカの伝説:フレデリック・コーテニー・セルー   ・セルーの武器   ・戦闘の起こった奇妙な場所:F.C.セルーとボン・リットー・ボーベック  第Ⅱ部 世界最大の狩猟保護区の発展   ・1922年から独立まで:保護区の拡大   ・「ヨードチンキ」アイオニデス:ハンター、初代ワーデン、蛇男   ・60年代の離陸:発展の年代   ・おののく脚:私のワーデンへの任命   ・衰退と回復:80~90年代   ・地上の男   ・セルーのワーデン   ・ムゼー・マドゴへの手紙   ・セルー・ニアサ野生動物回廊   ・セルー基本統計  第Ⅲ部 自然と人びと   ・密猟者とそのハンター   ・密猟者からワーデンへ:共同体の参画   ・セルーに生まれる:Mbwiga信用される男   ・ライオンと人:人食いライオン   ・ルフィジ川に死す   ・歯と爪:野生動物の暗黒面  第Ⅳ部 最後のエデンーアフリカの最高の保護区の一つ   ・ユニークな生態系   ・ゾウの王国   ・ルーズベルト・セーブル:アンテロープの進化の歴史   ・ワイルドドッグの最後の砦   ・鳥の天国   ・セルーの樹   ・セルーのウォーキングサファリ   ・変革の風:サイ・レンジャーの経験   ・ブッシュでの日々  第Ⅴ部 セルーでのハンティング   ・クラシックなサファリ:多くを救うために少数を殺す   ・古い時代の狩猟とハンター   ・グリーン・ハンティング  第Ⅵ部 セルーの未来   ・過去、現在、そして未来への3つのシナリオ   ・エピローグ

セルー保護区区域の拡大と変更  さて、大部でかつ多岐にわたる内容なので、全部を詳述することは簡単には出来ない。私自身の興味深い部分の紹介が重点になる。

 まずセルー保護区の歴史について。セルー保護区が「アフリカ最大」の保護区(約50,000km²)というのは知っていたが、「アフリカ最古」というのは知らなかった。普通アフリカで古い保護区というと、南アのクルーガー国立公園(1898年)の名前が挙がる。セルー保護区の設立も従来は1905年とされていた。この本ではセルー保護区の設立を1896年としている。

 東アフリカに豊富だった野生動物、特にゾウが大幅に減少したのは、植民地化と共に入植したヨーロッパ人のプロのハンターあるいは観光客による遊びのためのハンティング”サファリ”によるものだと信じられているが、この著者はヨーロッパ人が到達した探検の時代、19世紀の半ばには既に大幅に減少していたはずだと言う。それはアラブ人による奴隷と象牙の貿易が19世紀半ばには最高潮に達していたからである。ともあれ、1896年5月7日、当時のドイツの植民地総督ワイズマンは「貴重な種の絶滅を防ぎ、将来の世代に野生動物ハンティングの楽しみを残すため」の「野生動物条例」を公布し、ドイツ領東アフリカに2ヶ所の狩猟保護区の設立を宣言した。一つはキリマンジャロ西部、もう一つが現在のセルー保護区の中核部(現在観光客が入るブロック)である。当時は、モホロ(Mohoro)狩猟保護区と言われたらしい。面積は最初1,500km²だった。

 「Shamba la Bibi」というスワヒリ語を直訳すれば「夫人の畑」ということになる。セルー保護区の俗称として今でも使われているが、その起源は次のように伝えられる。当時(19世紀末)のカイゼル(ドイツ皇帝)ウィルヘルム2世がその妻の誕生日に贈った物だと。つまり「皇后の庭」なのだと。しかし、著者はこの俗説に首を傾げる。「皇帝がそのように無名の小さな土地を妻に贈ったとしたら、妻は喜ぶどころか侮辱されたと思わないだろうか?」と。キリマンジャロやセレンゲティならともかく‥(キリマンジャロは当時既に高名で、イギリスとドイツの国王同士の取引に出てくる、セレンゲティはまだ?)。設立当初の狩猟保護区は人間の居住、出入りは許されていた。男の生業であった狩猟は禁止されたが、女たちの仕事であった薪拾い、森林の伐採、あるいは畑(農耕)は許されていた。従って「女たちの畑」と呼ばれたのだというのが著者の説である。

 その後のセルー保護区の拡大、変更は左の地図のようになっている。どんどん拡大していって、緑の地域が現在の保護区であり、オレンジ色の地域は逆に切り離されている。北部の濃いオレンジ色の部分は、現在隣接したミクミ国立公園となっている。1917年1月第一次世界大戦のイギリス軍とドイツ軍の戦闘が、セルー保護区のベホベホ地区で行われ、当時65歳のフレデリック・C・セルーが戦死した。イギリスの統治時代に入った1920年代、その名を記念してセルー保護区と呼ばれるようになった。セルーは主として南部アフリカを中心に活躍した探険家、ハンターであり、セシル・ローズの手兵としてローデシア建国に暗躍している。そういう人の名前をアフリカ最大の保護区の名前として依然使っているのはいかがなものかと思わないでもないが、あまりに広大な区域に冠する元の名前がなかったからだろうか。

 1920年以降、イギリス領タンガニーカとなり、野生動物管理局の下で、国立公園、保護区の拡張、統合が行われた。モホロ保護区とマヘンゲ保護区が統合され、セルー保護区の中核が出来上がる。アイオニデスというプロのハンター上がりのレンジャーが精力的に歩きながらのコントロールを実施し、またツェツェバエに汚染された地区の住民を移住させた無人の地域を新たに保護区に編入するなどして、保護区は拡大していった。

 独立前からセルーのレンジャー(リワレ駐在、アイオニデスの後任)であったブライアン・ニコルソンは、1962年シニア・ゲームワーデンとなるが、彼の提案でセルー保護区におけるブロックごとの割り当てによるハンティングサファリが、1965年から開始されることになる。セルー保護区を運営する資金源としてのハンティングだ。ハンティングからの収入の20%が保護区の運営に当てられるようになり、それまで広大な保護区を徒歩でパトロールしていたレンジャーたちに、車両、そして飛行機が与えられるようになる。また観光収入というのが意識されるようになり、現在のベホベホ、ンゼケラ湖の2つのブロックが1968年に観光サファリに開放され、ベホベホなど今も残るキャンプが建設される。

 しかし、順調に見えたセルー保護区の発展も1970年代に入り暗転する。社会主義(ウジャマー)政策の導入による。キャンプは国営化され、セルーは70~80年代、強い密猟圧にさらされることになる。社会主義経済の不振のための予算不足で、あまりにも広大な保護区内をパトロールするには、レンジャーの人員も装備も到底足りなかったからだ。この間、ゾウは1年間に5千頭のペースで殺戮され、象牙は輸出された。大掛かりな密輸シンジケートが作られ、その中には政府の大物の関与が疑われている。70年代後半のセンサスで11万頭と言われたゾウは1986年には5万5千頭と半減していた。1987年からGTZの援助でセルーの保護プロジェクトが始まり、バルドスが着任し、積極的な反密猟パトロールが始まった。レンジャーたちと密猟者たちの銃撃戦が展開され、密猟は押さえ込まれるようになったと思われた。しかし、1989年の航空センサスではゾウは3万頭にまで落ち込んでしまった。また東アフリカ随一を誇ったサイも絶滅寸前まで追い込まれていた。


セルーでの密猟取締り活動  1982年セルー保護区がユネスコの世界遺産に指定されたのは、危機遺産として指定されたのだろうか?その後GTZの奮闘により、密猟は抑えられ、ゾウの数は8万頭以上に回復し、これ以上増えると森林が危ないといわれるほどになっている。またサイも200頭以上になっているようだ。ただ厳重に監視され、通常の観光ルートではまず遭遇できない。観光客用のロッジ、キャンプの数も増えてきた(2009年段階で14)。セレンゲティやンゴロンゴロのように100部屋もあるようなロッジは無理で、皆10~20部屋程度だから、大量の、特に団体ツアーは難しいので、セルー観光は依然高価ではあるが、順調に上昇傾向である。それでも広大な保護区をまかなうほどの観光収入はない。

 セルー保護区の特色は、47ブロックの内、43ブロックでは依然ハンティングが行われていることである。「セルー動物保護区」とSelous Game Reserveのことを訳しているが、直訳すれば「セルー狩猟保護区」となる。2005年にTBS『世界遺産』で2回にわたり「セルー保護区」が放映されたが、その最後で、セルー保護区では今日依然ハンティングが行われていること、動物たちにはそれぞれの値段がつけられていることが放映されると、テレビ局には抗議の電話が相次いだという。またセルー保護区のあるロッジの一部では、オーナーが獲ったトロフィー(ヌーやバッファローの頭やシマウマの毛皮)などが装飾品として置いてあると、日本人の観光客の中には拒絶反応を示す人もいる。自然保護と動物愛護を混同してはいけないと思うのだが、この本は著者自らハンティングをした記録、写真を載せている。

 第Ⅴ部でプロハンターが、現在行われているハンティングの様子を詳細に描き出す。セルーのハンティング期間は7月1日からの半年間。恒久的な宿泊施設の建設は許されていないので、毎年6月に各ブロックのハンティング権を獲得した会社はキャンプを建設する。それぞれのキャンプには10~15人のスタッフがいる。絶対必須なのはライセンスを持ったプロのハンターである。それ以外に、キャンプマネージャー、コック(1~2名)、ウェイター(2名)、テント助手、革剥ぎ(2名)、運転手(1~2名)、ボーイ(3名)。お客は3~4のテントに泊まり、ブタンガス、パラフィン、あるいは発電機を使った冷凍庫、冷蔵庫で、食料の保存や冷たい飲み物を提供する。ハンティングして得た野生動物の肉と、お客と一緒に空輸された野菜類が料理され、ホテル並みの料理が出される。

 お客であるハンターたちは、毎朝プロのハンターに率いられてハンティングに出かける。必ず保護区のゲームスカウトが同行する。昼食はキャンプで摂ることが多く、夕方また出かける。夜間のハンティングは禁止されている。ターゲットは大人の独り者のオスということになっており、繁殖、種の維持再生に影響のないものが選ばれる。こうしたハンティングサファリは21日間が単位なのだが、通常(平均)の獲物は、ライオンもしくはヒョウ(あるいは両方)、カバ、バッファロー(たぶん2頭)、クドゥーかセーブル(たぶん両方)、エランド、ブッシュバック、ハーテビースト、ヌー、インパラ、イボイノシシ、シマウマ、ブッシュダイカー、クリップスプリンガー、レッダイカー、そしてたぶんリードバック。さらに南部地区ならば、ゾウ。ゾウは象牙が150cm以上か15kg以上が条件とされている。毎年保護区でのゾウのハンティングは30~40頭で、5%以下で種の保存には全く影響しないという。それにしても、これが1つのブロックの21日間でのハンティングの平均の獲物だとしたら、ため息の出るような殺戮だと私などは思ってしまう。誰が、どういう人種がこんなことを好むのか?

 この広大なセルー保護区を運営するためにはハンティング収入は不可欠だと、この本の共著者たちは主張する。2008年、タンザニア全体で観光客は76万5千人で、それによる外貨収入は13億5400万ドル。観光客1人あたりの出費は$1,770である。一方、外国人ハンターはわずか1,508人で、それによる収入は1,470万ドルで、ハンター一人当たり$9,750となる。ただタンザニア人のハンターも存在し(1,725人)、更にハンティングにはトロフィーや皮革の輸出収入が加わるから単純な比較はできない。ただハンティングが儲かる商売であることは間違いない。セレンゲティは2008年、44万人の入園者を記録している(この数字はやや疑問である。2007年は28万人だった)。ンゴロンゴロはもっと多いはずだが、2008年の数字は未発表で、2007年は52万人。一方セルーの入園者数も最近のものは未入手だが、5千人程度と言われている。そしてセルーへのハンターは500人くらいで、人数は10分の1だが、ハンティング収入は、普通の観光客の収入の10倍に達するという。 

 北部の公園とセルー保護区との違いは、ミオンボ林の棲むアンテロープ類の密度が薄いこと、年の半分以上はルフィジ川の氾濫で通行可能な道路が限られること(通常3月半ばから6月初めまでの大雨季にはほとんどのロッジ、キャンプは閉鎖される)、現在観光客に開放されている北部の4ブロック以外に、観光客を呼ぼうとすると膨大な道路建設の投資が必要であることなどが挙げられている。潜在的な密猟者である、保護区の周辺住民を密猟取締りのゲームスカウトとして雇用することで、周辺共同体にハンティングの利益を還元するlことが、保護区全体の運営維持、野生動物の保護に役立つという論理である。いわゆる住民参加型の自然保護の発想である。

 このセルー保護区の将来はどうなのか?バルドスは最終章で3つのシナリオ(選択肢)を用意する。 (1)開発 (2)国立公園 (3)現状維持というものだ。

 (1)環境への配慮のない開発。セルー保護区はタンザニアの陸地面積の5%以上を占める。タンザニアの人口増大に伴い、農耕地、遊牧地への圧力は高まっている。また、1980年代にスティーグラー強国に水力発電所を作る計画が持ち上がり、日本の電源開発も参加して調査した。また、金、宝石、ウランなどの希少金属さらには石油の埋蔵も有望視され、探査が始まっている場所もある。もし、それが具体化して開発が始まったら、環境破壊、生態系の変化、ひいては保護区の崩壊につながるだろう。

 (2)国立公園化。ハンティングの禁止。これが究極の保護と考える人もいる。しかし、タンザニアの国立公園を管理するTANAPA(タンザニア国立公園公社)の管理する13の国立公園(現在は15。おそらくこの議論には新しいキトゥロ高原、ムコマジの2つの公園は含まれていない)の内、自己の支出を賄える、つまり黒字である公園はわずか4つ(キリマンジャロ、セレンゲティ、マニヤラ湖、アルーシャ)しかなく、現在ある13の公園を合わせたより広大なセルー保護区をTANAPAが引き受けることは不可能だとする。ハンティングの禁止は理想論に過ぎないとする。

 (3)現状維持、改善。結局、現状の観光とハンティングの並存が現実的な選択肢だとする。観光ブロックを増やすとしたら、主要河川沿いの数ブロックで、他はミオンボ林で、動物の数も少なく、見通しも悪く、道路建設のコストを考えると、ハンティングを続けた方がいいとする。現在一部で行われている密室内でのハンティングの権利取引をやめ、公正な入札、ハンティングの割り当ての厳守、などが必要だし、保護区収入の一定の割合の保持政策、周辺住民の参加の強化など課題は多いものの、これがセルー保護区が生き延びる唯一の方策とする。

 さて、セルー保護区の大自然に感動し、その永遠なることを祈る気持ちで、なおかつハンティングに対する生理的な嫌悪感がある人間で、自然保護と人間活動の対立に関しては、依然門外漢である身としての感想である。今のまま、より効率的に保護区が運営され、今は高価な入園料、宿泊料がもう少し下がり、北部のセレンゲティやンゴロンゴロのようなサファリパーク化は避けて、ワイルドな大自然が見られる地区として生き延びて欲しいと思う。ただ、確実に人口が増えていく世界の最貧国であるタンザニアの人々にとって、そのような感慨は許されるのか?アメリカやヨーロッパに都市に住み、(タンザニア人から見れば)高額な給与をもらい、「生涯の思い出」のためにセルー保護区に来て、安全な車の中から危険な野生動物を眺め、快適なキャンプで美味しい料理を楽しむ欧米人(日本人も含め)の姿は、周辺の貧しい農牧民からどう見られるのか?ゾウやバッファロー、ライオンは周辺の農民から見れば、怖い、邪魔な存在でしかない。特にゾウは農民たちの畑を一晩にして食いつくし、踏み潰してしまう害獣なのだ。ある日本企業が、セルー保護区のすぐ外の農地200haを取得し、換金作物栽培のために開墾したことがある。10数年の苦闘の後撤退したのだが、その理由には取得した土壌の問題以外に、苗木をゾウ、バッファローに食われる被害が延々と続いたこともあった。農場長であった日本人は「ゾウなんて可愛いと思ったことはない。許されるなら射殺したい」と語っていたことを思い出す。

 タンザニアは故ニエレレ大統領時代から、自然保護はかなり優先順位が高かった。「人類の遺産を自分たちが守る」という高邁な理想もあったが、観光産業への布石でもあっただろう。確かに、セレンゲティ、キリマンジャロ、ザンジバルを抱えるタンザニアはアフリカ有数の観光資産を持っており、特に野生動物(大型哺乳類)に関しては、セレンゲティとセルーの生態系を抱えるタンザニアは人類最大の遺産の保護者であるともいえよう。ただ、安全な先進国にいる保護運動家たちが、この最貧国のタンザニア(国立公園と動物保護区を合わせると国土の25%近くが何らかの保護を受けている)に負担、責任を負わせ続けることが出来るのか?タンザニア政府は援助を引き出すために、「自然保護」の看板を下ろすことはないと思うが、実際に野生動物と隣り合って生活している人びとが納得できるような運動は起こせるのだろうか?

 *人名、特にドイツ人名の読み方は自信がない。

(2009年9月1日)


ダルエスサラーム物価情報(2009年9月)US$1=Tsh1,330シリング

・バス/1乗り/Tsh300~Tsh500・新聞(朝刊英字紙)/1部/Tsh500・ガソリン/1リットル/Tsh1,500・米/1kg/Tsh1,200・たまねぎ/1kg/Tsh1,500・砂糖/1kg/Tsh1,200・ウンガ/1kg/Tsh750・牛肉(ステーキ)/1kg/Tsh6,000・卵/トレイ/Tsh5,500・パン/1斤/Tsh800

閲覧数:3回0件のコメント

最新記事

すべて表示

Habari za Dar es Salaam No.113   "Swahili Coast, Malindi to Mombasa" ― スワヒリ海岸・マリンディからモンバサへ ―

根本 利通(ねもととしみち) スワヒリというとその語源からして海岸地方のことであり、スワヒリ海岸というと南部ソマリアから、ケニア、タンザニアを経て、北部モザンビークにかけた東アフリカ海岸を指す。従って、スワヒリ社会研究というと、北からラム、マリンディ、モンバサ、ザンジバル、...

Opmerkingen


bottom of page