根本 利通(ねもととしみち)
ユネスコが指定する世界遺産というものがある。日本で指定されているのは11ヶ所で、法隆寺、姫路城、白川郷・五箇山、屋久島、白神山地などである。このうち法隆寺などを文化的遺産、屋久島などを自然的遺産という。 どれだけ人間の手が加わっているかの違いだろう。それ以外にも複合遺産と呼ばれるものもあるようだ。
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驚嘆の家
世界では現在指定されているのは754ヶ所に及び(2003年7月現在)、ヨーロッパに335ヶ所、北中アメリカに80ヶ所、南アメリカに58ヶ所、アジア166ヶ所、オセアニア19ヶ所、アフリカ98ヶ所といった具合で、やはり先進国に多くなるのは「歴史が多い」という思い込みからだろうか。歴史という観点からだったら断然中国とかインドかと思うと、中国29ヶ所、インドは24ヶ所である。国別で言えばスペイン、イタリアのそれぞれ37ヶ所には及ばない。保存状態というよりも保存への意思の違いだろうか。
タンザニアでは6ヶ所指定されており、アフリカ大陸の中ではチュニジア(8ヶ所)、モロッコ(7ヶ所)、エチオピア(7ヶ所)に次いで、エジプトと並び4番目に多い。地名を挙げると、セレンゲティ国立公園、ンゴロンゴロ・クレーター、キリマンジャロ山、セルー動物保護区、キルワ遺跡、ザンジバル・ストーンタウンである。 アフリカ的な大自然の遺産が多いが、文化遺産が2つあるのも、ブラックアフリカでは珍しい。
このうち、ザンジバルのストーンタウンは2000年に指定された。先日「世界遺産」というテレビ番組のロケに参加したので、自分なりに勉強し直したり、実際に歩いてみて現状を再確認したことをお知らせしたい。
ザンジバルのストーンタウンがいつ頃形成されたかということだが、12世紀のころの現在のShangani地区にあった漁村が、だんだんと町に成長していったと思われている。16~17世紀はインド洋に侵入したポルトガルと、在来のスワヒリ・アラブ勢力+オマーン・アラブの連合軍との角逐の時代であった。17世紀の末のモンバサの失陥で、ポルトガル勢力の敗北が確定し、18世紀初めにはストーンタウンの建設が始まった。 📷
ティップティプのドア
オマーン・アラブがザンジバルの支配権を確立したのは18世紀であるが、オマーン内部の覇権争いや在来のスワヒリ・アラブ(モンバサのマズルイ家)との抗争もあり、安定的な支配を誇っていたわけではない。やはり確立したといえるのは、スルタン・セイド・サイード(在位1804~56)の時代からだろう。特にサイードが宮廷をマスカットからザンジバルに移した(長く滞在し出した?)1840年以降、急激に発展する。これは奴隷労働力を使用したクローブ、ここやしのプランテーション農業の急激な発展を背景としている。
1830年代半ば、人口が10,000人強であったストーンタウンに、40年代になってオマーン・アラブの移住が進み、40年代後半には5,000人に達したといわれる。アラブ人には船乗りの伝統の強いハドゥラマウト(現在のイエメンの東部)からの移住者も多い。また商業・金融業を営むインド人も増加し、イスマイリー、ボホラといったムスリム系中心に、ヒンドゥー系のインド人も含め、70年代には2,000人を超えた。ザンジバルの古文書館には、イギリス植民地政府による人種・民族別登録写真が残されているが、日本人、中国人を含め19種類の民族別写真がある。19世紀末にはコスモポリタン的な都市となっていたのだろう。
ザンジバルの繁栄を支えたのは、奴隷労働によるクローブ、ココやしの輸出である。大西洋におけるはるかに巨大な奴隷貿易は、イギリスを中心とする資本主義、産業革命を準備し、超大国アメリカ合州国を生み出す基になったのだが、19世紀に行われた東アフリカのより小規模な奴隷貿易は、スワヒリ都市の精華ザンジバルを生み出した。しかし既に産業革命の段階に達していたイギリスは、次なる段階植民地を求め、奴隷貿易、次いで奴隷制度の廃止をアラブのスルタンに迫ってくる。その結果1867年に廃止された奴隷市場の跡には、現在英国国教会が立っており、悲惨な奴隷の倉庫跡を保存している。その壁面にはヨーロッパ人による大西洋奴隷貿易船と、アラブ人による内陸からの奴隷キャラバンが混然と貼られ、また庭には最近造られた奴隷像が並べられている。 植民地時代に作られ、独立後にも長く使われたタンザニアの歴史教科書には、「アラブ人による奴隷貿易の悲惨さとその廃止に尽力したイギリス政府とキリスト教伝道団」のことが大きく記載されていたが、それと同じ感覚の宣伝が残されており、訪れた観光客が意識しないと、アラブ=イスラムとヨーロッパ=キリスト教の対比に心を奪われ、主人公であったアフリカ人の存在は忘れられがちである。一種の情報操作であろうか。
奴隷制度自体の廃止は1897年まで待たないとならなかったが、それ以降アフリカ系の人々が同様の権利を勝ち取るまでは長い時間が必要だった。それは例えば着るもの、音楽、スポーツといった日常生活に反映される。ターラブというザンジバル独特の音楽がある。元は19世紀末に、スルタンの宮廷音楽としてエジプトから導入され、アラビア語で歌われ、男だけで行われていた。それを変えたのが有名な天才歌手シッティで、1920年代このアフリカ系(つまり奴隷の子孫)女性は、天性の美声で評判を博し、スワヒリ語による男女混成の楽団を率い、ボンベイで録音し、ザンジバルのみならずスワヒリ世界での大スターとなっていった。その過程で、旧支配層からのその出自、教育レベルに対する中傷と戦っていったことは言うまでもない。ザンジバル革命への緩やかな長い道のりの一側面であったろう。
現在ストータウンは約0.8平方キロメートルの地域に、13,000人が住んでいることになっている。この数字は2002年8月に行われた国勢調査のシャンガニ、ムクナジニマリンディ、キポンダ地区の人口を合計したものだが、実際より少なく出ている可能性が高い。ザンジバル特有の住民登録の基準で、実際に住んでいても把握されていない部分がある程度いると思われる。20世紀初頭より、1964年のザンジバル革命前には18,000人が住んでいたことになっている。
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ザンジバルの小径
ザンジバル革命の後、ストーンタウンの住民の大幅な変化があった。単純に言えば、支配階層であったアラブ人が殺されたり、国外に亡命したりして空家になった家に、郊外からアフリカ系の人々が入り込んだ。放棄された家は崩れ落ちたりして、叢になったり、ごみ捨て場になっている区画がそこかしこにある。また住民が住んでいても、生活様式が違い、内部はだいぶ変っているようだ。アガカーン財団の保護計画で一部修復も行われたりしているが、多くは現在の富裕層が買い取って、珊瑚石が使えないのでブロックとセメントという新しい方式で建設されている。
1990年代以降の観光都市化に伴い、シャンガニやフォロダニ地区には、ホテル、レストラン、土産物屋が多くオープンし、ザンジバル伝統のチェスト(箱)や香辛料だけではなく、マコンデ彫刻、ティンガティンガ派絵画、マサイのビーズ製品などを売るようになり、タンザニア本土から人間が多く流入している。ビーチリゾートの夜警として、アクセサリーのようにマサイ(少なくとも外見上はマサイ)が雇われ、ストーンタウンの小路をマサイが伝統的な衣装で歩いているという、従来はなかった違和感ある光景が見られる。タンザニアでは来年(2005年)が総選挙の年で、その有権者登録を控え、そういった流入してきた本土人(アフリカ人)の登録をめぐり、与野党の政治的な駆け引きが続き、そのデモとしての爆弾未遂事件が起こったりしている。 ザンジバル人とは何かのアイデンティティが問われているのかもしれない。
世界遺産というのは単に過去の歴史遺産であるから尊いのではなく、現在に活き、将来につながるから貴重なのだと思う。 インド洋世界の西端の位置し、スワヒリ文化の精華を誇ってきたザンジバルのストーンタウンが、これからどういう変貌を遂げるのか、よりアフリカ大陸色を強めていくのか、あるいは再びコスモポリタン的な色彩を帯びた都市として生まれ変わるのか、ただ単に観光に寄生した過去の都市として生きるのか、注目されている。
(追記)TBSテレビの番組「世界遺産」で、ザンジバル・ストーンタウンの放映が近日行われる予定である。
(2004年8月1日)
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