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読書ノート No.28   富田正史『エミン・パシャと<アフリカ分割>の時代』

根本 利通(ねもととしみち)

 富田正史『エミン・パシャと<アフリカ分割>の時代』(第三書館、2001年4月刊、3,500円) 

📷  本書の目次は以下のようになっている。

1章 旅立ち 2章 白ナイルの「夜明け」 3章 ブニョロとブガンダ 4章 新しい宗教の到来 5章 二人の王との謁見 6章 エクアトリア「王国」 7章 マフディー勢力の南下 8章 エミン「救助隊」 9章 エクアトリアの崩壊 10章 ブラ・マタリ 11章 中間考察 12章 イギリスとドイツの競争 13章 ブガンダ動乱 14章 祖国のために 15章 ルガードの戦い 16章 さまよえるユダヤ人 17章 師の旅路 18章 エミンを殺したのは誰か? 19章 その後と現在

 描かれているのは、リヴィングストン、バートン、スピークたちに代表されるアフリカ探検の時代が終わり、ヨーロッパ列強によるアフリカ分割、植民地時代の幕開けである1870年代後半から90年代前半である。この時代を代表するのが主人公エミン・パシャとその敵役であり、探検時代から引き継いで植民地分割の露払いをしたH.M.スタンリーである。

 まず、本書の内容を追ってみよう。エミン・パシャは1840年当時のプロシアのシレジア地方に生まれた。本名をエドアルド・カール・シュニッツァーというドイツ人であるが、親は改宗したユダヤ人で、本人はカトリックの学校に通い、プロテスタントの洗礼を受けたという複雑な宗教的背景を持つ。さらにエミン・パシャとして活躍した時代にはムスリムであると称していた。ドイツで医師の資格を得るが就職はできず、当時のオスマン・トルコ帝国でしばらく働くが、1875年スーダンのハルトゥームに登場する。

 当時のスーダンは形式的にはオスマン帝国下のエジプト太守の支配下にあった(正式にエジプトとイギリスの共同統治になったのは1899年)。そのエクアトリア(赤道)州知事として、イギリス人のC.G.ゴードンが赴任していたが、エミンはそのスタッフに採用された。その後、ゴードンがスーダン総督となり、1878年エミンはその支配下のエクアトリア州知事に就任した。そして従来アラブ人商人による奴隷と象牙貿易しか産業がなく荒廃していたエクアトリア州に、農業の種子(コメ、トウモロコシ、野菜、果物、ゴマ、落花生、綿花など)を持ち込み、食料の自給を目指した。動物資源を利用した商品開発も行い、エクアトリア州の経営はうまくいっていたらしい。

📷  しかし、1881年北部スーダンで起こったマフディーの乱はエクアトリア州のつかのまの安定を崩した。エジプト支配に対するスーダン人によるこの反乱は、エジプト太守に忠誠を誓うエミン以下のエクアトリア州支配層(ほとんどが外来の人びと)を孤立化させた。そしてヨーロッパ人であるエミンを「救助する」という動きがイギリスとドイツに起こる。

 「救援」なのか、「救出」なのか、後で揉めることになるのだが、その「救助」隊に名乗りを上げたのが、かのスタンリーである。スタンリーはすぐ後(1888年)にイギリス東アフリカ会社(IBEA)を設立するスコットランド人の企業家マッキンノンをスポンサーとして救助隊を組織する。ザンジバルを出発点とするこの救助隊、どういうわけかぐるっと喜望峰を回航して、コンゴ河河口から遡上することになった。この選択には名目上、東アフリカの陸上ルートは、マサイ人、ブガンダ王国、ブニョロ王国などの敵対的な周辺の民族が多い(だから、エミンは「孤立している」とされた)ためとされた。しかし、企業家マッキンノン、さらにはコンゴ自由国のオーナーであるレオポルド2世の思惑があったためだろうと著者は記す。もちろんスタンリーにも目論見があった。

 ともあれスタンリーの率いる救助隊は1887年2月ザンジバルを出発し、さまざまな紆余曲折の後、スタンリー率いる先遣隊は1884年4月アルバート湖のほとりでエミンと出会う。現在のコンゴ民主共和国の北東端である。この過程でザンジバル人商人ティップ・ティプに依頼したポーター手配の遅れなどのために、救助隊の後発部隊は多くの死者を出したが、そこには深入りしない。

 エミンは「救援」物資を求めていたので、必要とする武器弾薬を補給されれば、エクアトリア州維持には自信があったとする。しかしスタンリーの出現は、エクアトリア州におけるヨーロッパ人、アラブ人、アフリカ人の関係に影響を与えた。マフディー運動と対立しながらエジプト太守に忠誠を誓うエミンの部下たちは、イギリス人に救助されることを嫌って反乱を起こし、エミンは知事から解任され一時虜囚扱いになった。また、南に強力な王国を維持していたブニョロ王国のカバレガはエミンと友好関係にあったが、ヨーロッパ人の介入を嫌い敵対的になった。

 エクアトリア州に残りたいエミンはなかなか脱出に応じない。その優柔不断ぶりは呆れるほどだが、そのエミンをスタンリーは脅し、暴力的に連れ出す。その結果、エミンの部下の多くは置き去りにされた状態になった。1889年4月にエクアトリアを出発し、11月にドイツ領東アフリカに入った。ここで祖国ドイツの庇護下に入ったエミンは、「戦利品」としてエミンをエジプトに連れていきたいスタンリーと決別する。スタンリーはこの「救出」の成功で英雄となり、名声を得る。

 ドイツ領東アフリカに残ったエミンは、いったんは見捨てたはずの祖国ドイツのために約700人の遠征隊を率いて1890年4月バガモヨを出発する。当時所属が未定であった大湖地方を獲得し、さらにエクアトリア州まで取り戻そうとした。タボラまでは順調に進んだが、その年の7月1日、ヘリゴランド・ザンジバルをメインとする英独協定で、現地の人間が知らない間にロンドンでお互いの勢力圏が決められてしまう。エミンの活躍の場はなくなった。そして再会できた元部下たちにも拒否され、エミンは方向・目的を失った「さまよえるユダヤ人」となり、コンゴのイトゥリの森で多くの人員を失い、最後はアラブ人に殺されてしまう。

📷  このエミンの死には謎が多いが、著者は当時東部コンゴで進行中であったコンゴ自由国とアラブ人との戦いの中での招かれざる第三者であっただろうと想像する。まさしく「闇の奥」の出来事であった。そして20世紀の後半から現在に至るまで、当時のエクアトリア州(南部スーダン、北部ウガンダ、北東部コンゴ)では民族紛争が続き、今なお多くの人びとが死んでいる。そこにエミンの率いた旧エクアトリア州兵士の後裔たち(ヌビ人)が関与しており、それを著者は「奴隷に奴隷を殺させる」と表現している。

 読み出してすぐに粗いなぁと感じた。それは著者が「あとがき」に記している事情、「当初の原稿のほぼ半分に縮小せざるをえなかった」によるものかもしれないと想像できる。また、文献史料に多くを頼った現実感の乏しさなのかもしれない。調査をしようとした時にウガンダでアミンの暴政が始まり、その後南スーダンでは第二次内戦が始まったという運のなさもあるかもしれない。

 その現実感の薄さというのは、実はアフリカの人びとの息吹があまり聞こえないということから来ているようにも思える。エミンやスタンリー、あるいはそれぞれの周辺の人びとの記録を丹念に追っても、基本はヨーロッパ人探検家、征服者による記録である。エミンの部下であったエクアトリアの役人、軍人も外来の支配者、あるいは元奴隷出身の兵士で、地元の出身者は少なかった。

 したがって、著者はエミンのことを「惜しみなく与える人」「アフリカ人のためにアフリカ人とともに働く人」と絶賛しているが、それは現代でいえば「援助機関の人」であり、当時は植民地当局者に過ぎなかったのではないかと思う。(一方で敵役のスタンリーは「限りなく奪う人」「アフリカそしてアフリカ人を食い物にする人」と評されているーP.200)。エミンが意識した「アフリカ人」というのがどういう人たちだったのか。そしてその人たちは与えられる客体に過ぎなかったのか、という疑問が常に付きまとう。

 東アフリカというと以前はふつう三国(タンザニア、ケニア、ウガンダ)だった。現在の東アフリカ共同体(EAC)加盟国はさらにルワンダ、ブルンジがある。エチオピアやソマリア、さらにスーダンも東アフリカと称されることがたまにある。スーダン、特に北部はアラブ系の国というイメージが強かったから違和感が強かった。昨年南スーダンが独立し、EAC加盟問題が起こってきても、まだ遠い国という感じが抜けなかった。しかし、本書を読むと、南スーダンから北部ウガンダ、北東部コンゴへは人の往来も多く、エクアトリアとして一体として捉えようとした人たちもいたのだというのが理解できた。ナイル系と呼ばれる人びとの動きも浮かんできた。土地勘のない我が不明を感じた。LRAという北ウガンダの反政府ゲリラが現在北東コンゴにいるのも当然なのだろう。

📷  本書で敵役として描かれているスタンリーについて少し触れたい。スタンリーはリヴィングストン「発見」で名を上げ、コンゴ河を下り、「暗黒大陸」の呼び名を広め、ベルギー王レオポルド2世によるコンゴ自由国の悪業の準備をし、最後は祖国イギリス(探検家時代はアメリカ合州国国籍)の国会議員となり、貴族に列せられた。今では悪名が確定している人物である。

 そのスタンリーを著者は「富と名声・名誉のみを求める、冷酷で悪辣・粗暴なジャーナリスト探検家であり、暴力と「感情」が支配的な帝国主義の時代が要請した人物」と記す。ほとんど同意である。(一方でエミンは、「知性と教養を大切にするとともに、自然を愛し自由を求め続けた学者探検家であり、今後の世界に要請されるタイプの人物」と評されているーP.4)

 ところが、2007年になってそのスタンリーを「もっとも偉大なアフリカ探検家」と副題をつけたノンフィクションが発刊され、あろうことか「今年の伝記」に選ばれたというから、開いた口がふさがらない。選んだのはアメリカ合州国のSunday Timesである。

 そういったスタンリーに好意的な側の資料(上述のティム・ジールの著書)でエミンの救出を見てみよう。大筋のストーリーは変わらない。同じようなスタンリーやその救助隊のメンバー、あるいはエミンの日記や手紙から構成されているのだから当然だろう。しかし、エミンの将兵がアフリカの住民に残酷に振る舞ったことをエミンが止めなかったこと、マッキンノンがエミンの土地(エクアトリア州)と象牙を狙っていたというのは一方的すぎるとしている。またエミンがスーダンに向かう前に働いていたアルバニアの上司の妻と子どもたちを置き去りにし、ドイツで裁判で賠償の判決を受けていて帰りたくなかったことを指摘している。エミンが優柔不断な人間であり、かつ聖人君子ではなかったことは間違いなさそうだ。

 もうひとつスタンリーの妻が編集した自伝がある。そこでは当然のように、エミンが自分の意思でエクアトリアを脱出したこと、スタンリーが暴力的に強制したわけではなく、お互いの間には齟齬はなかったと書かれている。ということは当時すでにそういう批判があったということだ。またバガモヨに到着したときの歓迎の宴会で、エミンが2階から転落し入院してしまった後、エミンは裏切ってドイツ側についてしまったと非難している。それがさらにはコンゴでエミンがアラブ人に殺される遠因になったと。

 さらに第三者といえるかどうか、この救援に関わったティップ・ティプの伝記も見てみた。ティップ・ティプが契約違反したために、スタンリーの後発部隊の悲劇が起ったとスタンリーは裁判を起こした。そのポーターの手配については詳しく書かれているが、エミンとスタンリーとの対立については、「エミンはエクアトリアを離れることは非常に嫌がっていたが、半ば自分の意思に反して東海岸に向かった」とのみある。

 裁判となったスタンリーとティップ・ティプとの契約であるが、そこにはコンゴ自由国の当時の状況が背景にあった。つまり東部コンゴを仕切っていたティップ・ティプをリーダーとするアラブ人と、実効支配を目指したレオポルド2世との駆け引き。ティップ・ティプをスタンリービルの知事に任命して、アラブ人勢力を取り込もうという政治的取引。その一方でエミンが所有していたといわれる75トンの象牙で、この「救助隊」の費用の半分を賄おうというマッキンノンとスタンリーの目論見…。そしてわずか数年後には自由国内でアラブ人勢力は武力で掃討される存在になってしまう。

 本書はエミン・パシャという人物が19世紀末に経営していたエクアトリア州の存在を、実感をもって教えてくれた。そしてそれにむらがった西欧国家とヨーロッパ人の野望も。さらに現在の問題につながっていることも。この次の段階はやはりアフリカ人の主体をもった歴史の書き直しだろうとは思うのだが。アフリカ日本協議会発行の『アフリカNOW』96号は南スーダン特集らしい。まだ手元にないが、楽しみである。

☆参照文献:  ・Tim Jeal "Stanley-The Impossible Life of Africa's Greatest Explorer"(Faber and Faber Limited, 2007)  ・Dorothy Stanley "The Autobiography of Sir Henry Morton Stanley" (Gallery Publications,2006, Original 1909)  ・Henri Brode "TIPPU TIP-The Story of his Career in Zanzibar" (Gallery Publication,2000, Original 1903)

(2013年1月1日)

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