根本 利通(ねもととしみち)
南川高志『新・ローマ帝国衰亡史』(岩波新書、2013年)
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本書の目次は次のようになっている。
序章 21世紀のローマ帝国衰亡史
第1章 大河と森のローマ帝国-辺境から見た世界帝国の実像-
第2章 衰退の「影」-コンスタンティヌス大帝の改革-
第3章 後継者たちの争い-コンスタンティウス2世の道程-
第4章 ガリアで生まれた皇帝-「背教者」ユリアヌスの挑戦-
第5章 動き出す大地-ウァレンティニアヌス朝の試練-
第6章 瓦解する帝国-「西」の最後-
終章 ローマ帝国の衰亡とは何であったのか
序章で本書の目的を明らかにしている。モンテスキューやギボンによって語られたローマ帝国衰亡史について、歴史の見方、描き方、解釈が語られる時代の産物であるとする。そして、日本の「国力の衰え」を意識しつつ、「栄えていた国が衰えるということはどのようなことなのだろうか。それまで当たり前の存在と思われていた世界が動揺し、やがて崩壊してゆくのはどのように理解されるべきだろうか。この重い問いに対して、黄昏ゆくローマ帝国について語りながら、歴史と未来を考える素材を読者に提供すること」(P.7~8)とする。
第1章では、ギボンに倣って帝国の衰亡の前の最盛期を語る。もともと地中海国家であったローマは、ユリウス・カエサルのガリア遠征以降は、ライン川以西、ドナウ川以南、ブリテン島にも属州・植民市を持つ大帝国に成長した。領域を考えない「限りない帝国」であり、そのフロンティアに駐屯する軍隊は、軍事境界線・国境を意識していたわけではなく、ゾーンのような曖昧な緩衝地帯があったという。ローマ人と他者を分けるものは民族的なものではなく、ローマ人という自己認識であり、「新しいローマ人」はどんどん生まれていった。「ローマ帝国とは、広大な地域に住む、それぞれ固有の背景を持つ人々を、「ローマ人である」という単一アイデンティティの下にまとめあげた国家」(P.43)であった。
第2章では、「三世紀の危機」、軍人皇帝時代の支配階層の変化、その総仕上げとしてのディオクレティアヌス帝から始まる。ディオクレティアヌス帝(在284~305)は、帝国を東西に分け、さらに正帝と副帝を置くテトラルキア(四帝分治制)を始める。そしてその西半から出てきたコンスタンティヌス1世=大帝(在306~37)が再統一するのだが、その台頭の背景にはガリアの軍事力があった。ガリアの在地有力者の支持や「外」からの人びとの重用を行ない、フランクやアラマンニだとか「ゲルマン人」と見なされるような人びとに支えられた政権だった。キリスト教の公認(313)やニカイア公会議(325)もこの時代である。
第3章では、コンスタンティヌス大帝の後継争いの混乱を描く。三子分割相続となったが、ほかの親族男子や有力者も殺され、最終的に東半を割り当てられていたコンスタンティウス2世(在324~61)が単独皇帝となる。彼の治世の間に、コンスタンティノープル元老院が発展し、後代の皇帝側近官僚の独裁への道を開いたという。またキリスト教の強制や異教の排除、アタナシウスの追放なども行い、精神面での寛大さを次第に失っていった。しかし、この時代は「ローマ帝国は対外的には強勢で、表立って衰えの兆しは見せていない」という。
第4章では、ユリアヌス帝(在355~63)の生涯を描く。「背教者」として有名なユリアヌスは、哲学・文学に親しんだ少年時代を送ったらしい。しかし、コンスタンティウス2世によって、西半を統治する副帝に任じられ、ガリアに向かう。そして、フランク、アラマンニなどと交渉よりも戦争を選び、鎮定していく。鎮圧後は民政にも力を注ぎ、ガリアの人材と登用していく。3Cのドナウ、バルカン出身の軍人を「第二の新しいローマ人」とすれば、この時代のガリアの新興有力者を「第三の新しいローマ人」と呼んでいる。ガリアで力を固めたユリアヌス帝は、東の敵ペルシアに向かって戦死してしまう。まだ32歳だった。
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ローマ帝国の道・管区
第5章では、ユリアヌス帝の死後、ウァレンティニアヌス1世(在364~75)が即位する。弟ウァレンスを東担当の共治帝とし、国家機構・財政などを明確に分担する。この時代、西半ではアラマンニの蜂起(366)、スコティ、ピクト、アッタコッティ、サクソン、フランクなどがブリテン島とガリア海岸部と攻撃する「蛮族の共謀」事件が起こった(367~9)。コンスタンティヌス大帝の時代以降、軍隊に外部勢力を取り込む傾向が強まったが、この時代には「ラエティ」という移住・植民兵、「フォエデラティ」という同盟部族、「ブッケラリイ」という有力者の私兵などの軍隊が存在した。帝国の西半では在地有力者が独立的な傾向を示していた。
さてこの時代の帝国の東半に目を移すと、ドナウ川以東に「ゴート族」が存在する。370年代になって東から遊牧民フン人が移動してきて、グレウトゥンギ(東ゴート)を攻撃し、その影響を受けたテルウィンギ(西ゴート)が、ウァレンス帝にドナウ川渡河を求めた。世に言う「ゲルマン民族の大移動」(376)の始まりである。しかし、この年ドナウを渡河したのはせいぜい数万人だった。渡河してきた人たちは、ローマ側の受け入れに不満を持ち反乱を起こす。ウァレンス帝はそれを討とうとしてアドリアノープルで戦い、敗北、戦死する(378)。東半の帝国軍は壊滅状態となった。
第6章では、テオドシウス1世(在379~95)の努力と帝国の崩壊を描いている。テオドシウス帝は382年ゴート族と条約を結び、同盟部族として受け入れた。しかし、テオドシウス帝が亡くなり、二人の息子に分割された東西の帝国はそれぞれの補佐役の対立によって、ゴートだけではなく、ヴァンダル、スエウィ、アラニ人、ブルグンドなどの諸民族の移動に対応できる余力はなくなっている。ブリテン島、ガリアなどの属州も離反し、帝国の実質は失われていった。そのなかで、シュネシオスやミラノ司教アンブロシウスなどによって、外部部族排斥の「排他的ローマ主義」が主張されるようになってくる。そのなかで他者としての「ゲルマン人」という認識が生まれてきたのだという。最盛期に会った「誰でもローマ市民になれる」という寛大な思潮は消え、ローマ人であることのアイデンティティは危機に瀕した。
終章では、帝国の滅亡を扱っているが、それを476年ではなくて、409年にブリテン島が離反して帝国の実質が消滅して以降は、イタリアの一地方政権に過ぎなかったので、378年のアドリアノープルの戦いから、わずか30年で大帝国が瓦解してしまったという。ローマ帝国の衰亡の原因を著者はこういう。「「ローマ人である」という、帝国を成り立たせている担い手のアイデンティティが変化し、国家の本質が失われてゆく過程であった。…最盛期の帝国は、担い手も領域も曖昧な存在であったにもかかわらず、一つの国家として統合され、維持されていた。…その曖昧さを実体あるものとしたのは「ローマ人である」というアイデンティティであった。…偏狭な自己認識に陥らなかった。だが、4世紀以降、…偏狭な差別と排除の論理が広がり、…視野狭窄は世界大国に相応しくなくなった。…ローマ帝国は外敵によって倒されたのではなく、自壊したというほうがより正確である」(P.205~07)。
本書を読んだのは、『アウグスティヌス「告白」』を読んだ際に、その歴史的背景を知りたいと思ったからである。その読書ノートのなかにも書いたが、私の西洋の古代史の知識は大学受験の世界史のレベルに留まっている。大学ではまがりなりにも史学科に身を置いたが、西洋の古代史、中世史は視野になかった。それは西洋史、東洋史という区分の歴史学では、現代の世界史は語れないと思っていたからである。西洋史中心の史観では捨象されてしまう地域(その当時は「辺境」という言い方はしなかったと思う)の歴史を志向していたのだ。
まず、そのキリスト教のことであるが、簡単にしか触れられていない。アウグスティヌスの生きた354~430年というのは、まさしく本書で扱われている帝国の衰亡期に当る。アウグスティヌスの師にあたるアンブロシウスは何回か登場する。帝国のキリスト教化は異教の排除とともに進み、キリスト教徒たる「ローマ人」の排他的な共同体を目指したという。キリスト教のなかでもアリウス派など異端とされたものを排除していく過程だったのだ。キリスト教は本来寛容だったものが変質したのだろうか。「背教者」ユリアヌスがキリスト教徒を迫害しなかったこと、そしてアンティオキアでは多神教徒の反発を買ったことも触れられている。
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ローマ人の服装
キリスト教について簡単にしか触れなかったことは、著者が「あとがき」で断っているが、ほかにも経済・文化や他国との関係もほとんど論じられていない。「一つの時代を動かす政治の巨大な力をまずは捉えたいという想いが強くあった」ということだが、アイデンティティの変化だけで論じられても困ると思う。なぜ、4世紀後半になって、ローマ人のアイデンティティに変化が生じたのか。なぜ今までは受け入れてきた「ゲルマン人」を他者と見なし、野蛮視、敵視するようになったのか。
帝国の最盛期の実質化の要素のとして「ローマ人」としての生き方が挙げられている。それは具体的にはラテン語を話し、ローマ人の衣装を身につけ、ローマの神々を崇拝し、イタリア風の生活様式を実践することだという。それが4世紀末から5世紀にかけての外部民族の流入に伴い、ズボンの着用とか長髪、毛皮の外套など「ゲルマン人」としてのエスニシティ形成が見られ、他者と「ローマ人」を区別する意識が高まっていったが、それは偏狭な保守的思潮に過ぎないとしている。
ただ、そういった「ローマ人」としてのアイデンティティというのは実は一握りの階層のものだったのではないか。「ローマ市民」と呼ばれた人たちの下には、圧倒的に多くの貧民、解放奴隷、奴隷が存在していた。ガリアなどに属州が拡大し、その地方の有力者たちがローマの市民権を得ることができたとしても、一般の農民たちのアイデンティティはどうだったのか。「尊敬される国の一員となれる」という求心力が、市民から排除されていた一般大衆に働いていたとは思えないし、国家の論理だけで語ると誤るのではないか。
従来、キリスト教と並んで、ローマ帝国衰亡の原因といわれてきた「ゲルマン人」「ゲルマン民族」という言葉・表現については繰り返し論じ、否定されている。例えば「民族」という言葉は、19世紀の西欧における国民国家の成立とナショナリズムの影響を受け、特にドイツ国家の成立とその延長線上にあるゲルマン至上主義を奉じるナチスに利用されたことを踏まえ、注意を要する言葉になった。「古代の民族集団は固定的なものと考えられていない。集団のアイデンティティも可変的である」(第1章)とする。第5章でも、「ゲルマン民族の大移動」の発端となったゴート族やゲルマン諸民族について、「起源から変わらぬ紐帯を保持してきた生物学的、種族的なまとまりではなく、「ゲルマン人」の諸部族集団は、固定的ではなく離合集散を繰り返しながら、政治集団を形成していった。…4世紀は「エトノス」を形成しつつある過程にあったが、19世紀の「民族」とは違う。部族のエスニシティやアイデンティティは可変である」(P160~1)と述べられているが、これは何も目新しい研究の成果ではなく、常識の範囲内だろうと思う。
問題は、それを踏まえたうえで著者が「民族」「部族」をどう使い分けるか、もっと具体的に言うと、本書のなかで「…人」「…族」をどう使い分けているのだろうかということである。学問的に厳密さにこだわる著者のこと、基準ははっきりしているはずなのだが、読者には見えてこない。「トラキア系ダキア人、イラン系サルマタエ人、フン人、イラン系アラニ人、イラン系スキュティア人」と表記することと、「フランク族、ゴート族、ヴァンダル族、アラマンニ族」と表記することとの違いはなにか。「民族」が「部族」の上部構造だと思っているわけではないだろうし、この時代には厳然たる「部族共同体」が存在していたと思っているのだろうか。
著者が「序章」「あとがき」で記しているように、ローマ帝国の衰亡と「衰えゆく日本」とを重ねて語ろうという意図が本書になったと思われる。現代の社会の問題について、日本の歴史学者は語らないのが常態化しているように思うが、近未来の歴史について責任があるはずである。現代ともっとも遠いように思える古代ローマ史の専門家からそういう課題が出たことを喜びたいと思う。ローマ法という財産を残したローマ人のことである。そこから何を学ぶのかは私たちの課題としたい。
本書は科研研究の成果の一部とはいえ、新書本で一般人読者向けなのだから、「最新の学会の動向や成果」という言葉が多用されているのは、潔くない気がした。もっと大胆に踏み込んでもよかったのではないか。いかにも岩波新書らしい本だなと思わせる一方、裏表紙に次のようにある。「ローマ帝国は、実は『大河と森』の帝国だった。…「ゲルマン民族」は存在しなかった?…」とあるのは、編集者によるものだろうが、あざとい感じがした。
地図、絵は本書から
☆参照文献:
・松崎一平『アウグスティヌス「告白」(岩波書店、2013年)
(2016年3月15日)
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